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高松地方裁判所 昭和51年(た)1号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一  本件公訴事実及び再審開始に至る経緯について

一  公訴事実

本件公訴事実は、「被告人は、金員強取の目的をもつて、昭和二五年二月二八日午前二時頃、香川県三豊郡財田村大字財田上字荒戸香川重雄(当時六二歳)方に侵入し、就寝中の同人に対し、所携の刺身庖丁(刃渡り八寸位)を以て、いきなりその左顎部に突き刺したる外、全身三十数ケ所に斬り付け又は刺創を与えて同人を殺害したる上、同人所有の現金約一万三三〇〇円を強取したるものである。」というのである。

二  再審開始に至る経緯

本件確定記録及び再審請求事件記録によれば、被告人は、外一名と共謀のうえ、金員の奪取を企て、昭和二五年四月一日香川県三豊郡神田村農業協同組合事務所において、金品を物色中、宿直員に発見されるや、所携の刺身包丁をもつて、右宿直員に傷害を負わせ(以下この事件を神田農協強盗傷人事件という)、同年六月一五日強盗傷人罪として懲役三年六月に処せられ(同月三〇日確定)、引き続いて本件強盗殺人事件の容疑者として所轄警察署の本格的な取調を受けるに至つたこと、そして、同年七月二六日司法警察員に対しはじめて公訴事実記載の本件犯行を自白し、同年八月四日検察官に対し本件犯行を自白し、かつ同日勾留質問の際勾留裁判官の面前において本件犯行を自白したこと、ついで、本件につき同年八月二三日高松地方裁判所丸亀支部(原第一審)に公訴を提起されるや、公判廷では公訴事実を全面的に否認したけれども、昭和二七年二月二〇日結局有罪として死刑判決の宣告を受け、これを不服として高松高等裁判所(原第二審)に控訴したが昭和三一年六月八日控訴を棄却され、更にこれを不服として上告したが、最高裁判所は弁論を経由したのち昭和三二年一月二二日上告趣意が刑訴法四〇五条の上告理由にあたらず同法四一一条を適用すべき事由は認められないとして上告を棄却し、よつて死刑を宣告した第一審判決が同年二月二日確定するに至つたこと(以下この判決を確定判決という)、被告人は、死刑囚として大阪拘置所に拘禁中、確定判決に対し、同年三月三〇日再審の請求をしたが昭和三三年三月二〇日右請求を棄却され、これに対しては即時抗告の申立をしなかつたこと、しかし、昭和四四年四月九日再び高松地方裁判所丸亀支部に再審の請求(本件再審請求)をしたところ、昭和四七年九月三〇日右請求を棄却され、これに対する即時抗告もまた昭和四九年一二月五日高松高等裁判所において棄却されたが、これを不服として特別抗告をした結果、最高裁判所は、確定判決が挙示する証拠だけで被告人を強盗殺人罪の犯人と断定することは早計に失するとしたうえ、再審請求棄却決定及びこれを是認した抗告審の決定には刑訴法四三五条六号の再審理由に関する審理不尽の違法があるとして、昭和五一年一〇月一二日同法四一一条一号を準用して右両決定を取り消し本件を高松地方裁判所に差し戻したこと、そこで、同裁判所は、本件再審請求事件につき事実の取調をしたうえ、昭和五四年六月七日刑訴法四三五条六号にいう無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとして再審開始決定をなし、これを不服とする検察官から即時抗告がなされたけれども昭和五六年三月一四日右抗告を棄却され、同法四三三条二項の定める期間の経過により、本件再審開始決定はここに確定し再審の運びに至つたものであることが認められる。

第二  確定判決の認定判断について

一確定判決が認定した罪となるべき事実の要旨は、「被告人は、借金の支払と小遣銭に窮し、財田村在住の闇米ブローカー香川重雄(当時六三年)が相当の現金をもつていると考え、同人が一人暮らしで付近に人家も少ないことから、場合によつては同人から現金を強奪しようと企て、昭和二五年二月二八日午前二時すぎころ、国防色ズボン(証二〇号)等を身につけ、刺身包丁を携えて同人方に到り、就寝中の同人の枕許あたりを物色したが、目的の胴巻が見当らなかつたため、いつそ同人を殺害して金員を奪おうととつさに決意し、所携の刺身包丁をもつて、同人の頭、腰、顔を何度も切りつけあるいは突くなどし、同人が仰向けに倒れるや、その腹に巻いていた胴巻の中から現金一万三千円位を奪つたあと、さらに同人の心臓部あたりに一回包丁を突き刺し、包丁を全部抜かずにもう一度同じ部位を突き刺して(いわゆる二度突き)止めを刺し、もつて同人を殺害した。」というのである。そして、確定判決が以上の認定に供した証拠の標目は次のとおりである(付記は確定記録に基づき当審で要約した証拠の内容である)。

1医師上野博作成の鑑定書(25825付)

右鑑定書に、香川重雄の死体を検するに、本屍は、頭部、顔面、胸部、手指その他全身に三十数個の創傷があり、頭頂部の切割創のうち一個は、長さ約5.5糎であり、創底にて骨質を傷つけ、骨小片を遊離し、左右口角部付近の刺切創三個は、その創底いずれも口腔内に通じ、舌根部及び咽頭後壁に刺切創を生じ、左胸部の創傷は、左上方から右下方に少しく斜走し、前胸壁を貫いて左胸腔内に達し、左肺を刺切し、左上葉の前面にて長さ約1.0糎、巾約0.3糎、深さ約5.0糎及び長さ約2.0糎、巾約0.7糎、深さ約8.0糎なる二個の刺切創を生じ、これらの創傷から流出した血液の一部は胃内に、大部分は左胸腔内に貯留し、その量は略々失血死をきたすに充分であり、右拇指にあたる長さ約四糎の切創は骨質を暴露し、右示指の切創は関節部を離断せんとし、右環指の切創は深さ骨質に達し、左栂指第一節には、長さ約3.5糎、創口開してその巾約2.3糎なる切創があり、左中指、同環指及び同小指の指腹には切創が一連して存在しており、全身の創傷の大部分は有刃の尖器によつて生成せられ、死因は急性失血死であり他殺と認める。本屍の心臓血で検した血液型はO型と判定された旨の記載がある。

2司法警察員作成の検証調書(2531付)

右検証調書に、現場は、香川県三豊郡財田村大字財田上字荒戸番地不詳香川重雄方居宅母屋の奥四畳の間であり、被害者の屍体は、同間西南側箪笥の前に、頭を南西に向けて仰向けに倒れ、両足は四五度位に開いて真直ぐ伸ばし、右腕を曲げて虚空をつかみ手を〓にやり、左腕は曲げて肘を畳につけたうえ拳を上方にして虚空をつかみ、頭部及び顔面には新聞紙が被せられており、下記の状況から就寝中犯人に襲われたものと認められる。新聞紙をはぎ屍体を検するに、被害者の両手指は創傷を負いともに鮮血にまみれ、頭頂部、口部、右耳部などに多数の創切刺傷が認められ、その出血は、顔をやや左に振つておるため、左肩左胸部下方の畳上に多量に流出し、約二尺平方は血の海となつている。被害者の着衣は、上体に袷縦縞寝巻、白ネル襦袢、紺色チョッキ、ねずみ色毛糸アンダーシャツ、白メリヤスシャツを着し、下体にはメリヤスパンツを着けておるのみであり、右足もとに血痕のついた白ネル腰巻様のものが丸めて置かれている。血液の流出及び飛沫は、同間東南側に東枕に敷き延べられた寝具の下布団南側、散乱した上布団の一枚、毛布、枕許の座布団等を血に染め、就寝中の頭部にあたるところの東側及び南側の各襖に飛沫状血痕が付着し、枕許から西側に向つて畳の上に敷かれた敷紙上にもまた一面に擦過状血痕の付着が認められる。犯人の血痕足跡は、屍体の左胸部横にあたる血糊の中に右足先端を西向きに一個、開かれた両足の中間に東向きに一個、これより四尺二寸五分東方に一個、更に三尺四寸東方に一個、順次出口に向かい以上合計四個あり、いずれも血のついた靴の足跡である。金品物色の状況をみるに、被害者の枕許付近において幾分取り混ぜた形跡を認めうるが、他に犯人が金品を物色した証跡は認められない。被害者が常時携帯するという胴巻は、寝床南側の着物かけの釣柄に土埃の付着した下ズボンとともにその内側に吊るしてあり、胴巻の中に、鹿皮財布一個(十円札五枚、一円札一七枚、五円札四枚、五〇銭札三枚、一〇銭札四枚、五銭札一枚、五〇銭貨一枚、合計金八九円四五銭在中)、認印一個、衣料切符、保険預り証が入つていた。母屋に通ずる東側炊事場入口には、俗にゴットリと呼ばれる錠をそなえた半間の板戸が入れられ、板戸の外部表面にはゴットリ外しの穴の左横付近を短刀様の刃物でつけた刺痕が三か所にあつて、刺痕のうち一個は板戸を貫通しており、犯人は炊事場の同入口から侵入したものと認められる旨の記載がある。

3証人香川ツネの証言

右証言中に、私は被害者香川重雄の妻で当時主人とは別居していたが時折主人の許を訪れており、主人はいつも胴巻を身につけ小金のみ財布に入れ大金は財布とともにその胴巻の中に入れて所持し、殺された当時の所持金は一万円か二万円であつたと思う旨の供述がある。

4証人宮脇豊の証言

右証言中に、自分は所轄警察署高瀬警部補派出所警察官として本件の聞込捜査に従事中、昭和二五年四月一日神田農協強盗傷人事件が発生し、共犯者石井方明の自供により、被告人がともにその被疑者として検挙され、裁判の結果懲役刑に処せられそのころ確定したが、右事件の手口が本件と類似している点から、内偵の結果、本件につき被告人の嫌疑が濃厚となり、右裁判宣告後、本格的に被告人の取調を開始した。被告人は、当職の取調に対し、安藤良一と共謀のうえ昭和二四年夏ころ被害者香川重雄方のみかんの木を登つて同家二階の窓から屋内に侵入し同人が屋外へ出た隙に階下の部屋で現金一万円位等を盗み炊事場入口から逃げたことがある旨告白し、ついで本件に関し否認弁解の末、供述の矛盾、不合理を追及されるや、昭和二五年七月下旬から本当ともうそともつかない自白をはじめ、次第に本件の詳細にわたる自白を遂げるに至つたものである。当職においてその間被告人に対し誘導、歓待、暴行その他不当な取調により自白を強制したことは一切なく、現に被害者の左胸部のいわゆる二度突きに関する被告人の供述は犯人でなければ知りえない事実を語るものであつて、取調中被告人が涙を流す場面もあり、その自白は被告人の反省悔悟に基づくものと思われ、被告人の手記五通もまた真にその悔悟のあらわれにほかならない。被告人は頑迷であり、一時逃走の危険が窺われ、その家族もまた被告人の靴や衣類など証拠品を畑に隠匿し、捜査は困難をきわめたが、取調はつねに情理を尽くし被告人の弁解を十分にきいてこれを行つた旨の供述がある。

5証人田中晟の証言

右証言中に、自分は国警香川県本部より派遺され昭和二五年七月下旬から被告人の取調にあつたが、被告人に対し情理を説いてその供述の矛盾を追及したところ、被告人は同月二六日はじめて本件犯行を自白し、同月二八日一たん犯行を否認したけれども、同月二九日再び自白して以来、一貫して本件が自己の犯行であることを認めてきたのである。もつとも、被告人の供述内容はときに変遷し虚実をとり混ぜたような点もあるが、その自白は任意になされ具体的かつ詳細であり、ことに被害者左胸部の二度突きの点は被告人が自発的にした陳述であつて、当職としては被告人が本件事犯の犯人であることを確信している旨の供述がある。

6証人浦野正明の証言

右証言中に、自分は警察官として昭和二五年四月ころ神田農協強盗傷人事件につき被告人の弁解を録取したが、共犯者石井方明の自供により事案は明白であるのにかかわらず、被告人は、当職に対し、荒いけんまくで「やつていないのにどうすると言うのだ。」と喰つてかかる態度を示し、かなり気の強い強情な性格であつて、捜査官の意に迎合してその誘導や強制にのるような人物ではない旨の供述がある。

7遠藤中節作成の鑑定書(2581鑑定嘱託)第五項

右鑑定書に、「国防色下服の右脚下半で、前面の略中央(木牌を附してその部位を示す。)及び略々後面の下端等に、暗褐色乃至黒褐色の小斑点若干を附着し、之等は何れも略々同様な性状を呈し、木牌を附した部分の斑点はルミノール発光反応及びウーレン・フート氏人蛋白沈降反応を陽性に与えるので人血痕である。之等は何れも表面から附着したもので裏面から附いたものでなく、且つルーペで検すると、多少光沢のある飛沫血痕の様に見え、何れも微少で血痕の量が少く、血液型の検査を行うに充分でないから之を行わなかつた。写真第一は本物の下半の一面を、第二及び第三は其の一部(人血痕附着部)を夫々撮影したもので、後二者は前者を多少拡大したものである。本物件が私の手許に送致せられた時には、被検汚斑が赤色の稍々太い線で円く囲まれ、其の部位を明示せられてあり、かかる汚斑は何れも血液検査(ルミノール発光反応)が陰性であるのに反し、赤い印のない更に微細な暗褐色の小斑点は陽性の血液反応を呈した(註・血液検査陽性の斑点若干にはチョウクで白印を附しておいた)。而して本物件が洗濯せられたとしても、血液反応の陽性を呈した斑点の中には洗濯を免れたと思われるものがある。即ちその量は極めて少ないが、前記の如く多少光沢ある黒褐色の微細な塊をなして附着して居る。」との記載があり、写真三葉が添付されている。

8鑑定人古畑種基作成の鑑定書(2666付)

右鑑定書に、証一一号夏メリヤスシャツ、証一二号夏メリヤスパンツについている血痕は人血であり、その血液型はO型である。証二〇号国防色ズボンの右脚前面の中央より稍下方及び右脚後面下方の白チョークでマークされた三か所の部分には、ケシの実大の暗褐色の斑痕三個及び半米粒大の暗褐色の斑痕一個があり、いずれも人血であるけれども、血痕の付着が微量であり、各個の検査が困難であつたため、これらを集めて検査した結果、その血液型はO型と判定される旨の記載がある。

9鑑定人古畑種基作成の鑑定書(26611付)

右鑑定書に、「被告人の血液型は、ABO式ではA型、MN式ではMN型、Q式ではQ型である。即ちAMNQ型である。被害者香川重雄の血液型は、ABO式ではO型、MN式ではN型、Q式ではq型である。即ちONq型である。」との記載がある。

10証人谷口孝に対する裁判官川島喜平の尋問調書(25812付)中、昭和二五年二月二六日か二七日かその前後ころ兄である被告人が夜半を過ぎ午前三時半か四時頃家に帰り座敷で寝たことは間違いない旨の供述記載

11被告人の検察官に対する第四回供述調書(25821付)

右は被告人の判示同旨の供述を録取したいわゆる自白調書である(その供述内容の詳細は後述のとおり)。

12領置にかかる証一ないし二六号の存在

証一ないし一七号は被害者の所有した衣類や所持品等であり、証一八号国防色上衣、証一九号軍隊用袴下、証二〇号国防色ズボン、証二一号国防色綾織軍服上衣、証二二号革バンド、証二三号白木綿長袖シャツ、証二四号靴下、証二五号砥石、証二六号砥石は被告人の着衣その他の証拠物である。

二原第二審判決は、確定判決の事実認定を是認し、先に述べたとおり本件の控訴を棄却した。その理由の骨子は、下記のとおり、被告人の自白の証明力及び任意性並びにアリバイの点に関する説示である。すなわち、被害者の創傷のうち、とくに頭、胸、口角部、右手指等の切創は、自白調書中の犯行時の模様、凶器の用法に関する被告人の供述と符合し、この点の被告人の自白を裏付けていること、被告人が当夜着用していたと自供する国防色ズボン(証二〇号)右脚表部に附着した飛沫血痕のようにみえる斑点がO型の人血痕であり被害者の血液型O型と一致すること、犯人が屋内に侵入しようとして炊事場入口の板戸の錠であるゴットリを外すため刃物様のものでつけたとみられる板戸の痕跡は自白調書中の侵入口に関する被告人の自供と符合することが認められ、さらに被告人の取調官に対する自白の推移を仔細に検討すると、被告人が検察官にした自白の真実性に疑いはなく、たとえ本件において凶器とされた刺身包丁が発見されていなくても、被告人の供述によれば犯行後これを財田川に投げ棄てたというのであり、投棄の五か月後になされた捜索までにその流失又は埋没の可能性ある点にかんがみれば、包丁を発見できなかつたからといつて、これにより被告人の自白に真実性がないものとはいえない。さらに、捜査官が被告人に対し違法不当な取調をした事実は認められず被告人の前記自白の任意性に欠けるところはない。そして、犯行当夜における被告人のアリバイは成立しないというのである。

第三  自白の証明力について

本件において、被告人の捜査段階における自白を録取したいわゆる自白調書は、犯罪が被告人によつて行われたことを証明する直接証拠として、数多ある証拠全体のなかできわめて重要な比重を占め、その証明力いかんは裁判の帰すうを決するものである。このことは確定判決の挙示する各証拠の内容をみれば本件が被告人の自白を措いてその有罪の宣告はありえない事案であることから容易に推察されよう。かような事案において自白が断罪の証拠として十分な証明力をもつためには自白を構成する供述の内容が大綱において真実であることを要するのはいうまでもない。確定判決は、その自由な心証により、被告人の自白を真実であると判断し、本件再審開始決定及びこれを是認した抗告審の決定は、事実取調の結果、被告人の自白には数々の疑点があつてその信用性に疑いを抱かざるをえないというのである。当審はもとより本件審判において以上の証拠判断に拘束されない。被告人の自白の真実性は、旧証拠のみならず、再審公判において取調べたあらたな証拠に照らし、その供述内容の合理性、非合理性を審査し、自白に至つた取調の経過を参酌し、かつ自白を裏書する事実及び証拠の有無などを検討し、もつて総合的にこれを判定しなければならない。自白は自己に不利益なるがゆえにその限りにおいて高度の信用性があるといえるにしても、他の供述証拠とは異なり、自白なるがゆえにその供述に虚偽を伴い易いこともまた経験則の教えるところであるから、自白のなされたこと自体より当然に自白の真実性を推定し、もつてこれを罪証に供するがごときはもとより許されないところである。

第四被告人の自白について

被告人の自白を録取した書面は、被告人25726(員)調書(被告人の司法警察員に対する昭和二五年七月二六日付供述調書の略・以下証拠の表示は記載を簡潔にするためこの要領に従いすべて略語を用いる。)、25727(員)調書(二通)、25729(員)調書、2581(員)弁解録取書、2582(員)調書、2584(検)弁解録取書、2584(裁)勾留質問調書、2584(検)調書、2585(員)調書(二通)、25811(検)調書、25814(検)調書、25821(検)調書(確定判決挙示の自白調書)、25825(検)調書、以上合計一五通の多きにのぼり、被告人が右各調書において捜査官に対し語るところは、具体的でありかつ詳細をきわめる。しかしながら、被告人の自供によれば、被告人は、犯行の帰途、被害者の殺害に用いた刺身包丁を財田川に投棄し、自己の衣服等を後刻洗濯して被害者の血を洗い落し、かつ被害者から奪つた現金の費い残り約八〇〇〇円は後日神田農協強盗傷人事件の被疑者として警察署に連行される途中ひそかに路上に捨てたというのである。誰ひとり目撃者はいないのみならず、被告人の右自供に基づき後日なされた捜索の成果にもまた何一つみるべきものはない。したがつて、犯罪の痕跡として残され被告人の自白の真実性を担保すべき物的証拠は、保存された犯行現場の証跡を除き、後に述べるとおり、皆無に等しい状態である。しかも、被告人の供述は、捜査官の取調の都度、その語るところが容易に変転し、とりわけ犯行前の被告人の行動、凶器である刺身包丁の隠匿、投棄の場所、被害者方への侵入の方法、犯行の状況、被告人の着衣、奪つた金員の額等に関する被告人の供述は終始一貫せず、取調の進行に伴い著しい供述の変更がみられるのである。なるほど、人間の観察や記憶は、本来不完全なものであるから、事項によつては、その述べるところが、錯覚や忘失のため、矛盾しあるいは鮮明を欠き、後にこれを訂正する必要のあることはむしろ当然であろう。ことに、犯罪者が、罪証を隠滅し、犯罪事実を否認し、一たん自白したあとでも、その不利益を想起してこれを取消し、またはその一部を包蔵して架空の事実を述べ、もしくは利害を打算して前の供述を変更することは、常習的傾向を有する犯人の往々にして用いる手段であるとさえいえよう。しかし、犯人とされる者の供述にかような変遷がある場合において、供述の矛盾を解明するのが裁判所の職務であるといつても、供述のいずれかを措信すべき特段の事情が認められない限り、互いに矛盾する供述の取捨判断はきわめて困難であるといわざるをえない。そこで、被告人の供述変更の経過を左記のとおり事項別に観察したうえ、以上にかんがみ、互いに矛盾する被告人の各供述につき関係各証拠に照らしその証明力の有無優劣を検討し、最後にこれらを総合して供述を全体として評価し被告人の自白の信用性につき考察を加えることとする。

一  犯行の動機、計画に関する被告人の供述について

1この点に関する供述の要旨は次のとおりである。

25626(員)調書「私は、二月ころ(昭和二五年、以下同じ)、借金が、大西嘉三郎に五〇〇〇円、西原喫茶店に四〇〇円位、片山友一方に一五〇〇円位、信里三郎方に五〇〇円位、加賀(友人)に七〇〇円位、宮坂屋(大河内)に三五〇円、谷川商店に六〇〇円位、金森元喫茶店に七〇〇円位、五郎八飲食店に二五〇円、行成利徳に二〇〇〇円、総計一万二〇〇〇円位あつた。大西嘉三郎方は、厳しく家に来てまで催促して、私もその支払いに苦慮していた。」

25720(員)調書「私には、二月頃に借金が一万三〇〇〇円位あつたし、旧正月の小遣銭も欲しかつたので、香川重雄を殺してでも金を奪つてやろうと思い、その計画を弟の孝に打明けたり、犯行に友人の安藤良一を誘つたことがある。すなわち、二月中旬ころ、自宅座敷八畳間で孝と一緒に寝た際、つい兄弟ゆえ気を許し、香川重雄を殺してでも金を盗んでやろうと思う旨小声で話したところ、孝から、どうせわかる事だし後先を考えろと言われて犯行を止められた。また、その後、安藤を誘つて香川方にはいり、安藤を見張りとして、腹巻の金を盗もうと考え、同人を呼び出し、今晩やろうやと誘つたが、同人の賛成を得られなかつた。」

25726(員)調書「私が本件犯行を決心したのは、事件の七日か一〇日位前のことである。借金の支払が気になつたのと、旧正月の小遣銭が欲しかつたからである。それで弟孝にも犯行の決意をもらしたのである。私の計画としては、前に一緒に被害者香川重雄方に入つて一万円を盗んだ友人の安藤良一を誘つて、同人に見張りをさせ、私が家の中にはいつてやろうと思つた。安藤を誘つたのは二月一〇日ころ、二月一六日ころの二回であるが、いずれも同人から断わられ、二月二七日にも誘いに行つたが、同人が不在であつたので、自分一人でやることに決めた。」

2584(検)調書「私は、二月二〇日ころには、借金が一万円位あるうえ、小遣銭もなく、金に困つていたので、そのころから被害者方へはいつて金を盗ろうと考えていた。その方法としては、同人方へはいつて金を探し、金がある場合にはそつと盗んで帰り、金がない場合には刺身包丁で相手を殺害してでも金を盗るという考えだつた。」

2585(員)調書(第七回)「借金の支払に困つていたし、二月中旬ころから、被害者を殺してでも金を奪つてやろうと思いかけた。そのことで悩んで、弟孝に犯行の計画を打明けたが、同人に叱られた。そのころ安藤も誘つたが、同意を得られなかつた。そして、いよいよ被害者方へはいつてやろうと決心したのは二月二七日夕方である。」

25821(検)調書「私は、約一万円余りの借金があり、大西嘉三郎、金森喫茶店あたりからは早く支払つてくれと催促を受けたこともあり、父にはこの借金のことがわかつてひどく叱られたりして、早く支払わねばならぬと考えていたが、一方旧正月を迎えて小遣銭もなくどうしたものかと思案中、友人から被害者が闇米のブローカーをして常に相当な現金を持つているということを聞いていたし、また安藤良一と二人で被害者方で一万円を盗んだこともあつて、被害者が相当な金を持つているものと考えていたし、同人は年寄りで一人住いをしており、付近には人家も数軒しかなく盗みに行くには恰好の場所であつたので、二月二〇日ころから本件犯行を考えるようになつた。その方法として、胴巻が容易に見つかればそつと盗み、さもないと殺してでも金をとる計画をたてていた。このような計画は誰にも話さず、自分一人で秘密にしていた。」

2被告人の供述の真否について

被告人は、昭和二五年二月ころ飲食代金等の支払いが滞り、合計約一万円前後の借金をかかえ、その支払いにつき二、三の飲食店等から厳しい催促を受け、被告人の両親にまでその請求が及んでいた事実は、大西寿26920(裁)尋問調書、西原吉雄、片山米子、信里三郎、谷川道彦、金森治良、今井国太郎、大河内満、安藤良一各2687(裁)尋問調書、谷口菊太郎25727(員)調書及び2587(検)調書並びに被告人の前掲25626(員)調書により優に認められるのみならず、被告人が当時小遣銭に窮しみずから自由に使える現金の欲しい切なる心境にあつた事実は、強盗未遂罪を犯し執行猶予中の身上でありながら、後日既述のとおり共犯者石井方明とともに神田農協強盗傷人事件を敢行している点に照らし明らかであるといわねばならない。しかも、行成利徳25725(員)調書によれば、被告人や行成利徳、安藤良一ら遊び友達の間で、以前から、被害者香川重雄の所持金その他同人の暮らし振りが何かと話題に上つていたことが認められ、現に、被告人は、被害者香川重雄方に侵入して金品を窃取しようと企て、安藤良一と共謀のうえ、昭和二四年七月中旬ころ夜半にみかんの木を登つて同家二階の窓から屋内に侵入したうえ、一階の床下にもぐつて夜を明かし、被害者が所用で家をあけた隙に屋内を物色し、畳の下から現金一万円を窃取した事実が安藤良一2621証言、521112(検)調書、58215証言により明らかであつて、この事実は被告人においても確定審以来一貫して認めるところである。以上の認定事実を総合して考察すれば、被告人は、本事件当時被害者香川重雄方にまとまつた現金のある公算の大きいことを自らの体験として知っていたほか、同家の屋内や屋外の状況も過去の右体験を通じてほぼ把握し、かつ付近に人家が少ないことから被害者方が現金をねらうのに適した場所であることなど各般の実情をかなり心得ていたものと認めるに十分である。しかしながら、犯行の計画に関する被告人の前記供述中、被告人が自己の弟である孝に対し本件強盗殺人の犯行計画を打ち明け、また当時友人の安藤良一を本件犯行に誘つたとの点については、これに符合する谷口孝、安藤良一の供述がいずれも見あたらないため、その点に関する被告人の供述が真実であることを確認するに足りない。およそ、犯行の決意、計画のごときは、深く自己の胸中に秘め、これを他に口外しないのが通例である点よりすれば、被告人が、たとえ肉親の弟といえども、これに対し強盗殺人の犯行計画を打ち明けたというがごときは、不可解であり、その言動が異常である点に疑問を禁じえないのである。もつとも、被告人は、25821(検)調書のなかで、先に掲げたとおり「このような計画は誰にも話さず、自分一人で秘密にしていた。」と述べ、取調の終局においてにわかに供述を変更しているけれども、その供述変更の経過に首肯しうべき理由は何一つ示されておらず、変更後の右供述もまた直ちにその真実であることを確認することができない。要するに、本件強盗殺人の犯行計画に関し被告人の述べるところは、以上に照らし、全体としてその信用性に疑問なきをえないのである。

二  犯行前の行動に関する被告人の供述について

1この点に関する供述の要旨は次のとおりである。

25726(員)調書「私は、友人の安藤良一を誘つて同人に見張りをさせ自分が被害者方に入つて現金を奪おうと思い、二月二七日午後七時三〇分のバスで飲食店宮坂屋(安藤良一方)へ行つたが、同人が不在であつたので、一たん向隣りの私の恋人大久保律子方を尋ねた後、再び宮坂屋へ行き、近藤某と一緒に焼酎を飲み、午後一二時ころか午前零時半ころ同店を出て歩いて帰宅し、家に入らず、刺身包丁を持つて、被害者方に向かつた。」

25729(員)調書「実は当夜宮坂屋へは行つておらず、午後八時ころ自宅座敷表口から出て東側の風呂場で四、五時間位どうやつて被害者方へ入り金を強奪しようかと考えていた。」

2582(員)調書「風呂場で四、五時間考えたと述べたのは私の間に合わせの言葉であり、実際は午後八時か九時ころ弟の孝と一緒に寝床へ入り、午後一一時半か一二時ころこつそり起きて、風呂場にあつた刺身包丁を取り出し、よく斬れるように砥石で研いだうえ、これを持つて家を出た。」

25821(検)調書「二月二七日の晩、弟孝と共にいつもの如く、座敷八畳の間で床に就いてから、いよいよ今晩やろうかという考えが起こり、家族が寝静まるのを待つて、午後一一時三〇分ころ起き、刺身包丁を取り出して研いだうえ、これをバンドの左腰にさして被害者方に向かつた。」

2被告人の供述の変更について

犯行当夜被害者方に向け出発するまでの自己の行動について被告人の述べるところは、その供述自体が示すとおり極めてあいまいなものであつて、果たしてどこまで真実を述べあるいはどの供述に真実があるのか疑いなきをえないのである。被告人は、参考人として取調を受けた25626(員)調書において、本件犯行を否認し、自己のアリバイにつき、「二月二七日は、炭焼きを休んで午後一時ころバスで琴平へ映画見物に行き、午後六時半のバスで帰途についた。しかし、自宅へは帰らず、午後八時ころ財田中村の宮坂屋へ行き、午後一〇時ころから翌二八日午前二時ころまで安藤、近藤ら数名と一緒に酒を飲んだ。そのあと大久保律子方を訪ね今晩酔うているから泊らしてくれと言つて午前六時半ころまで同家八畳の間でゴロ寝し、朝七時ころ自宅へ帰つた。」旨供述している。先に掲げた被告人の供述にみられる著しい変遷は、アリバイに関する右供述が安藤良一その他関係人の取調により虚偽であることが判明した結果、取調官の追及により、関係人の陳述との関連において、被告人が順次その供述の変更を余儀なくされたことに起因するものであろう。このことは安藤良一、大河内満各2687(裁)尋問調書、谷口孝25714(員)調書、25722(員)調書、2587(検)調書、25812(裁)尋問調書等を通じて窺われるのである。しかしながら、思うに被告人が犯行前自宅にいようと宮坂屋を訪れようとむろん犯罪の成否には関係のない事柄であり、被告人が真に本件犯罪の実行者であるとすれば、犯行前の自己の行動は、錯覚や記憶違いの起こりうるはずのない事項であるといつても過言ではあるまい。してみると、犯行前の行動に関する被告人の供述が、取調の進行に伴い、前記のとおり著しく変転しているのは、不審にたえない供述の推移であり、被告人が取調官に対してことさらあいまいな供述に終始した真意ないし理由の存するところを理解するのに苦しむのである。

三  侵入の場所、方法に関する被告人の供述について

1被告人の供述の要旨は次のとおりである。

25726(員)調書「被害者方の表(東)のみかんの木から、前に一万円を盗んだときと同じように、屋根に上り、二階の障子を外へはずして二階に這入り、約二〇分間位様子を窺い、梯子を降りて台所から被害者の寝ている奥四畳位の間に行つた。」

25728(員)調書「私は犯人ではなく、事件のあつた当時、自宅北側の道路を自転車に乗つた男二人が、賊はドスで戸をこじ開けてあるということを話しているのを耳にした。」

25729(員)調書「房内で反省し、包み隠さず申し上げる。私が侵入した場所は、前回は二階からと述べたが、実は釜場の半間の戸のゴットリ付近を刺身包丁の先で三、四回位突いてゴットリを上にあげ、戸を二尺位開けて家の中に入つた。」

25821(検)調書「どこから入ろうかと考えたが、中二階の窓は、前に一万円を盗んだ際侵入したため、戸締りが厳重だろうと思い、今度は炊事場の入口より入ることとし、右窃盗の際同入口の板戸はゴットリを上にあげて戸を引けばよいことがわかつていたので、腰の包丁を抜いて右手に持ち、刃を下方に向けてゴットリのある付近を数回突いたところ、手ごたえがあつたように思われたので、戸に突き刺した包丁を右手に持ち、左手は戸の約二尺位の高さのところにかけ、両方の手で戸を持ち上げるようにしながら向かつて右の方に引くと板戸が開いた。」

2被告人の供述の真否について

侵入の場所、方法に関する被告人の供述は、以上のとおり、最初はみかんの木を登り二階の窓から侵入したと供述し、その翌々日には犯行そのものを否定し、四日目にいたるや最初の供述を一変し、炊事場入口の板戸に設けられたゴットリ付近を刺身包丁の先で突いてゴットリを上にあげ、板戸を開いて炊事場入口から屋内に侵入したというのである。なるほど、前掲2531(員)調書によれば、被害者方母屋に通ずる東側炊事場入口には、俗にゴットリと呼ばれる古風な錠前をそなえた半間の板戸が入れられ、板戸の外部表面にはゴットリ外しの穴の左横付近を短刀様の刃物でつけた刺痕が三か所にあつて、刺痕のうち一個は板戸を貫通しており、犯人は炊事場の同入口から侵入したと窺われる証跡のあつたことが明らかである。してみると、被害者方炊事場入口から侵入したとの被告人の前記自供が、同入口の板戸に残された右証跡に符合する事実は、本件において被告人の自白の信用性を判断する貴重な資料の一つであるといわねばならない。しかしながら、供述が証拠によつて認められる客観的事実に符合する場合において、供述以前に取調官がその事実を現に知つている限り、これに符合する供述は取調官の誘導に基づく場合のあることを看過してはならない。しかるところ、先に認定した証跡の存在した事実は、被告人の自供(25729(員)調書)に先立ち、その取調を担当した司法警察官宮脇豊(香川県三豊地区警察署高瀬警部補派出所々長)が事件発生の翌日に行われた現場検証に立会し(2531(員)現場写真撮影報告書参照)すでに十分に知つていた事実であつて、一連の自白調書その他関係各証拠を通じ認められる被告人に対する取調の経過にかんがみれば、侵入の場所、方法に関する被告人の前記供述変更には取調官に対する迎合のあとさえ窺われ、本件において右取調官から被告人に対し前記証跡に符合する供述の誘導がなかつたとすることのできる保障はないのである。もつとも、頑迷な犯人が強制等の圧力によりはじめて犯行の真実を吐露する場合もあるから、取調官の誘導の結果なされた供述がつねに虚偽であると限らないことはいうまでもない。けれども、誘導の疑いのある供述は、これに符合する客観的事実そのものによつて、直接その真実性を確認することが不可能であり、その供述の真否は、他に被告人を犯人と推断するに足る証拠のない限り、結局これを確かめることができないのである。してみれば、炊事場入口から侵入したとの被告人の前記自供が、先に指摘したとおり、同入口の板戸に残された前記証跡に符合するにしても、このことは直ちに被告人の右自供が真実であることを保障するものではありえない。以上は、被告人の右供述の真否を確認できない理由であり、ひいては被告人の自白の信用性につき確たる心証を形成しがたい理由の一つである。

四  犯行の状況に関する被告人の供述について

1この点に関する供述は、被告人のいわゆる自白であり、その要旨は以下のとおりである。

25726(員)調書「被害者は、電灯のついた奥四畳位の間で仰向けに寝ていた。私は、刺身包丁を被害者ののど元一尺位につきつけ、左手でオイオイとゆり起こし、金を出せ殺すぞと言うと、被害者が、右手で包丁を払いのけ、何するかと叫んだ。そこで、私は、包丁を手元に引き、起き上つた同人の腹あたりを突くと、同人がタンスのほうに逃げたので、これを追い、無茶苦茶に斬つたり突いたりした。被害者は、タンスのほうに頭を向け、足を障子のほうにして仰向けに倒れた。これらは一〇分間位の出来事である。私は、被害者が声も出さないので死んだと思い、その右横から被害者の胴巻をはずし、財布を出して金を盗り左下のポケットに入れ、胴巻をその場に捨てた。血のついた刺身包丁は被害者の着物で拭いた。被害者の傷は腰から上に多く、沢山の血が顔のほうや上半身から出て畳の上に流れていた。」

25727(員)調書(第二回)「被害者は、私の突きつけた包丁を払いのけると同時にその手で私の左足をすくつたので、私は、尻餅をついたがすぐ起きあがり、被害者もまた起きあがつていたので、まごまごしていたらやられると思い、夢中で被害者の胸か腹かを一突きした。……私は、被害者の右横でその腹巻をはずし、金を盗り、服の上ポケット左側にねじ込み、被害者の足をまたぎ大股で出口に向かつた。」

25727(員)調書(第三回)「被害者が倒れてからは、胴巻の金を盗つた以外は同人の身体に手を触れたり、刺したり斬つたりはしていない。……また、被害者が布団の上にいるうちは、胸の方を突いた最初の一突きだけで、後は突いたか突かぬか、血が出たか出ないか記憶にない。」

25729(員)調書「私は、被害者の寝ている付近に胴巻が見あたらなかつたので、被害者を脅して金を奪おうと思い、右手の刺身包丁を突きつけ、左手を胸のあたりに押しつけオイオイとゆり起こすと、被害者は、目を開いて、何するんだと言うや、右手で包丁の刃を握つた。……私は、被害者がタンスの前に倒れたのを見て、生き返つたら犯行が発覚すると思い、止めを刺すため、包丁を被害者の口に刺し、なお念のため、胸のシャツを開いて被害者の左乳のあたりを五寸位の深さまで突き刺したが、血が出てこなかつたので、心臓までとどいていないのかと思い、突き刺している包丁を二寸位抜いたうえ、更にもう一度同じところを突き刺した。突いた深さや方向は変わつていないと思う。そして、刺した包丁を引き抜いたところ。傷口から少し血が出てきたように思う。そのあと、被害者の着物で包丁の血を拭き取り、臍のあたりに巻いていた白木綿の胴巻をはずし、これを縦にして振つてみたら財布が出てこなかつたので、胴巻の中に手を一尺位差し込み財布を抜いた。財布は、巾五、六寸、長さ一尺足らず、二つ折り木綿製であり、なかに古い百円札(二つ折り)厚さ一寸余りと、一〇円札、五円札厚さ五、六分位があつたので、これを盗つて左ポケットに入れ、小銭は盗らずに財布をその場に捨てた。」

2582(員)調書「私は、まず被害者の寝ている敷布団の下を手で探つてみたが胴巻がなく、あたりにもそれらしいものが無かつたので、脅して盗ろうと思い、左手でオイオイと被害者をゆり起した。……胴巻はたしか左横のほうで結んでいた。どんなに結んであつたのか左手で結びを解いたら直ぐほどけ、振つても財布がなかなか出ないので、包丁を持つた右手の指を二本添え、左手を胴巻のなかに突つ込んで財布を取り出した。」

2584(検)調書「私は、寝ている被害者の左頬、顎あたりへいきなり刺身包丁を刺し込むや、被害者が手で包丁を握り起きあがつて布団の上に座つたので、同人の顔面をめがけ包丁で数回突いた。……被害者がばつたり倒れたので、私はいよいよ金を盗ろうと思い、被害者の着ていた白い布で私の両手や包丁の血を拭いたうえ、被害者の腹に巻いた胴巻の口に手を差し入れて財布をとり出し、百円札や十円札を掴んでズボンの左ポケットに押し込み、財布を畳の上に放り出し、胴巻は一部が被害者の身体に巻きついたままで放つて置いた。そして、被害者に止めを刺すため、その着衣を腹の上の方へまくり上げたうえ、包丁で被害者の胸部を一回突き刺し、さらに刺した包丁を全部抜かずに少し角度をかえてもう一度刺したあと、包丁や手を先程の布でふき血を拭つた。」

2585(員)調書(第七回)「被害者に顔を見られたら困るので、とつさに髪を前に垂らして目から上を長髪で隠し、刺身包丁で被害者の口を刺そうと思つて突いたが、垂れた髪のため見当がくるい右〓のあたりを突き刺した。被害者は、すぐに目を覚ましウワアーウワアーと言いながら包丁を握り、直ぐに起きて布団の上に座り、大声でウワアーウワアーと二声位叫び救いを求めた。私は、座つている被害者の顔面を夢中で二、三回突き、さらに四つ這いのようにして逃げる被害者の後ろから頭のあたりを二回位斬りつけ、そのとき飛沫の血が私の右手に付いた。……被害者の着物か腰巻のような物で手と包丁の血を拭いたあと、同人のチョッキ等を胸のあたりまでまくり上げ、包丁を持つたまま両手で胴巻の結びを解いて被害者の身体からこれを取り外し、胴巻のなかに手を入れて財布を取り出し、その中の札入れのところの百円札、十円札だけを盗つて下服の左ポケットにねじ込み、財布を胴巻の中に戻したうえ、胴巻を被害者の腰のあたりに捨てた。そして、被害者に止めを刺すため、その心臓あたりを包丁で五寸位突き刺したが、血が出なかつたので、包丁を少し手元に引きもう一度突き刺した。」

2585(員)調書(第八回)「(問)胴巻は金を盗んでからどうしたか。(答)その場に捨てたと思うが、何分急いでいたので記憶が薄い。(問)被害者の体に何か被せなかつたか。(答)十分記憶がない。」

25811(検)調書「財布の大きさは、縦七、八寸、巾四、五寸位であつたと思う。胴巻と財布を畳の上に放置したことは前に述べたとおりである。被害者の顔に新聞紙をかぶせたような記憶はない。」

25821(検)調書「私は、黒革短靴をはいたまま床上に上り、若し顔を見られては具合が悪いので、当時長くのびていた頭髪を前に垂らして顔が見えないようにしたうえ、被害者の寝ている部屋に入り、枕もとあたりを探したが胴巻が見あたらなかつたため、とつさに被害者を殺してから金を探そうと思い、中腰の姿勢で、刺身包丁の刃を下に向けて右手に本手に握り、被害者の右横から咽喉を目がけて突き刺したが、頭髪で顔をかくしていたため、手許がくるつて被害者の左〓のあたりに包丁を刺し込んだ。被害者が、その瞬間「うわあ」と二、三回大きな声をあげ、右手で包丁の刃を握つたので、直ちに包丁を手許に引くと、被害者がかけ布とんを両手ではねのけて上半身を起こし、敷布とんの上に座り何か大きな声をあげたが、何と叫んだのかよく覚えておらない。被害者の声が裏の久保国助にでも聞えては困ると思い、中腰で矢つぎ早に被害者の右顔面部あたりを二、三回突くと、被害者が入口のふすまの方へ逃げようとしたので、同人の背後からその頭部を目がけて一、二回包丁で切り下げたあと、入口に立つて被害者の前面をふさいだ。すると、被害者は今度は北側の障子の方へ向かい這うて行き障子のさんに手をかけたので、私は背後より同人の腰のあたりから一突きしたと思う。被害者は、私の包丁を見ながらいざり始め、何か救いを求めるような声をあげたが、その声は前よりよほど低くなつていた。私が被害者の顔面めがけて四、五回直突きをやると、被害者は中腰になつて私の方を向いたので、私はさらに同人の首の辺りを三、四回位突いた。すると、被害者は、箪笥の方へ頭を向け足を北側の障子の方へ向け、斜めに仰向けになつて倒れ、手足をぶるぶるとふるわせた。私は、被害者がもう死ぬだろうと思い、包丁や手についた血を被害者の着用していた布切れのような物でぬぐい、包丁を右手に持つたまま、左手で被害者の着物を開き、チョッキや襦袢を上にまくり上げると、へその当りに垢のついた白木綿の胴巻を左側でトンボ結び(真結び)にしていた。その胴巻に紐はついておらなかつたと思う。そこで、包丁を持つた右手と左手で胴巻の結び目をほどき、左手で胴巻の端をつかんで引き出し、被害者が最初寝ていた枕許の上あたりに釣つてあつた電灯のところへ行つて調べると、胴巻の中央部に財布らしい物があつたので、左手で胴巻の片端を握り、他方の端を下にして振つたが、財布が出ないので、胴巻の口を右手に持ちかえ、左手を胴巻の口に突き込んで財布を取り出した。財布は二つ折りで、色も生地も記憶ないが、幅四、五寸、長さ七、八寸位あつたように思う。財布の中に百円札が二つ折りにして厚さ約一寸位、十円札、五円札は折らずに厚さ約一寸位あり、百円札も十円札も二つの浅い袋に入れてあり、深い袋の方には小銭らしいものがあつたけれども、盗んでもつまらんと考え、百円札と十円札全部を私のはいていた国防色中古ズボンの左横ポケットに入れた後、財布は胴巻に戻し、胴巻を寝室と座敷の境の上の方にあつた着物かけの向つて右から二番目あたりのところへ掛けたと思う。当時着物かけには何か衣類らしい物がかけてあつたと思うが種類ははつきりしない。ついで、被害者の倒れている所へ引き返したが、被害者の顔が血でよごれ未だ血が下にたれていたので、恐ろしくなり、箪笥の付近にあつた新聞紙のうち一枚をとつて被害者の顔面にかぶせた。新聞紙ははつきり記憶しないが一〇枚前後はあつたと思う。私は、被害者があとで生きかえつては困るので、その心臓を突いておこうと考え、被害者のへその上あたりをまたぎ、チョッキや襦袢上にまくり上げて胸部を出し、包丁の刃を下向きにして右手に持ち、あばらの骨にあたると通らんので、刃の部分を向つて斜め左下方に向け、心臓と思われるところを大体五寸位突き刺したが、血が出ないので、包丁を二、三寸抜き(全部抜かぬ)更に同じ深さ程度突き込み、様子を見たところ、被害者が全然動かないので、もう死んだと思つて包丁を引き抜いた。倒れている被害者の左側箪笥寄りの方にその顔や口から流れ出た血が相当ひどく畳の上に落ちていた。胴巻をあとで着物かけにかけ、新聞紙を被害者の顔にかぶせた点をこれまで知らぬと申したのは自分が犯人でないことを装うためである。そのあと、包丁を被害者の着物でふき、耳をすまして外の気配をうかがい、大急ぎで北側の障子寄りの方を大股に歩いてその部屋を出た。

2被告人の供述の変遷について

被告人が取調の終局において検察官にした前記自白(25821(検)調書)は、犯行の態様、凶器の用法について語るところが、2531(員)検証調書、上野博25825鑑定書によつて認められる犯行現場及び被害者の創傷の状況と大筋において符合しているものと認める。このことは本件において被告人の自白の真実性を判断する重要な資料の一つであるといえよう。しかしながら、一連の自白を通じ自己の犯行状況について被告人の述べるところは、他の諸点についての被告人の供述同様、取調の進行に伴い順次変転し、その供述相互間には単なる記憶違いとして看過できない幾多のくいちがいがあり、果たしてこれが真に犯罪を実行した者の体験に基づく供述であるのか多大の疑問を抱かざるをえない。被告人のかような矛盾する供述を録取した各自白調書のなかにあつて、25821(検)調書に記載された被告人の供述のみを全面的に措信すべき特段の事情は認められないのである。すなわち、被告人の供述変更の経過をみるに、被告人は、まず「オイオイ」と声をかけて被害者をゆり起こし、「金を出せ、殺すぞ。」と包丁を突きつけ、被害者が「何をするか。」と叫んだので、同人を斬つたり突いたりして殺害したうえ、同人の巻いていた胴巻をはずし、金を盗つてポケットに入れ、胴巻をその場に捨て、包丁を拭いた旨自白に及んだあと、自白した自己の心境について、25726(員)調書によれば、「幾度か良心の呵責で自白しようと思つても機会がなかつたが只今は正直に自白したので気持も楽になりました。後悔と済まないという涙で男泣きに泣いております。」というのである。反省悔悟の末男泣きに泣いて正直に述べたはずの供述が、捜査官の現場検証によりすでに判明していた犯行現場の証跡に符合せず、右供述に単なる忘失とはみられない重要な点に関する供述の欠けていたことは、被告人が犯罪の実行者であるとされる限り、不審にたえない。犯行現場及び屍体の創傷の状況は、先に「確定判決の認定判断について」の項で詳細に述べたとおりである。果たして、被告人は、順次取調官に対し、被害者の左胸部への二度突きの点を自白し(25729(員)調書)、「胴巻は畳の上に放置し」、「被害者の顔に新聞紙をかぶせた記憶はない」との従前の供述を取調官の追及により撤回したうえ、胴巻は着物掛けにかけ、被害者の顔に新聞紙をかぶせたと思う旨その供述を一変し(25821(検)調書)、ここに至る間二度突きの時期その他犯行の順序や態様について先に掲げたとおり一度ならずその供述を変更し、取調の終局において、検察官に対し、大筋において犯行現場の証跡に符合する前記供述を遂げるに至つたのである。以上にかんがみ、本件における一連の自白を通じて考察すれば、被告人の供述は、取調の進行に伴いあまりにも容易に変化し、その供述変更の経過にはただ迎合的な気持からひたすら取調官の意にそうように供述したあとさえ窺われ、果たしてどこまで真実を述べあるいはどの供述に真実があるのかその判断に苦しまざるをえない。被告人の前記供述中、犯行現場を去るとき「大股に歩いて部屋を出た。」と述べる点などは、その迎合的陳述の明らかな一例である(後記5参照)。もつとも、強盗犯人が、深夜他人の家に押入り家人を殺害した事犯において、犯行現場における自己の行動を逐一記憶し、取調官に対し、最初から誤りなくこれを供述するがごときは不可能なことであり、その供述がむしろ一貫していることこそ却つて不自然であつて、被告人の供述の変遷は、その多くが錯覚や思い違いを想起してこれを訂正し、又は意識的にその記憶に反する供述をするなど経験則上首肯できる原因による供述の変更にすぎないとする所見もあろう。しかしながら、被告人の供述変更は、以上のとおり取調官に対する迎合を窺わせるものがあるのみならず、いわゆる二度突きの事実や胴巻の置き場所に関する点は、事態が異例のことゆえ、記憶違いや錯覚の起こりうる余地はなく、いやしくも自白する以上ことさら事実を曲げて述べる理由など認めがたい事項に関する供述の変更にほかならない。要するに、被告人の供述にみられるかような変遷は、被告人が真実自己の体験しない事実を陳述したことによるのではないかとの疑いさえ生ぜしめ、被告人の自白全体の真実性に疑いを抱かせる理由の一つとなるのである。

3いわゆる二度突きの自白について

この点に関する被告人の供述は、先に掲げたとおり、「被害者に止めを刺すため、その左胸部を刺身包丁で一度突き刺したけれども、血が出てこないので、包丁を全部抜かずに、同じところをもう一度突き刺した。」(25729(員)調書等)というのである。しかるところ、上野博25825鑑定書によれば、被害者の左胸部の創傷は、外部処見では一個の刺創であるが、内景においては左肺上葉の前面で深さ五糎と八糎の二個の創口を生じ、かつ右創傷から流血した血液の大部分は左胸腔内に貯留していたことが認められ、右は被告人の自白した二度突きによつても生じうる創傷であることを認めるに十分である。被告人のかような自白は、本来ならば犯人でなければ知りえない事実を語るものであつて、創の形状から推測した捜査官の誘導に基づくものでない限り、被告人の有罪を認めるきわめて有力な証拠であるといわなければならない。そこで、以上にかんがみ、創の形成に対する取調官の認識その他の問題点について順次検討を加えることとする。まず、被告人の取調を担当した宮脇豊警部補の証言の要旨は以下のとおりである。2622証言「善教寺に捜査本部がある時から、地元であれば谷口と石井があやしいと進言していた。広島の警察学校に入所した間も絶えず報告を受けていた。中間休暇で帰つた時も捜査本部に行きそこで色々話を承り納得のいくよう調べようと、聞き込み捜査を続けて、谷口だとの風評を聞いたので、三豊地区署に勾留して取調をはじめた。」、44111証言「四月上旬に三豊地区署に留置していましたので、広島管区から休暇で帰つたとき、お詫びと激励かたがた行き、谷口を少し調べたことがあります。(問)強盗殺人事件について捜査会議を開きましたか。(答)事件発生当時善教寺に本部を置き毎日開いていました。(問)被害者を解剖したとき警察官も立ち合いましたか。(答)立ち会いました。(問)どういう目的で解剖して鑑定させるのですか。(答)死因、凶器、傷の部位、程度、死亡時間など捜査の資料を得るためです。(問)被害者の胸の傷はどうなつていましたか。(答)三十数ケ所傷があり、乳の下に火箸で突いたような傷があつたと記憶しています。」、2623証言「(問)被害者の左胸部の刺創の状況を知つたのは何時か。(答)三月一日の午后の二時頃か三時頃、被害者着用のシャツを切つて開けた処、突かれている点を知つたのであり、当時は内部から血が出ていなかつたので、さほど内部深く入つた傷ではないと思つていたのです。(問)(鑑定書を)何時見たか。(答)八月に入つて本件を送検するのに間に合わん位に送つて来て、その時見たのであり、その時左胸部の傷の如何なるものかを知つたもので、三月一日に見たと言うのは傷の外部の所見が判つたと言う程度です。」、28628証言「(問)(解剖に)立会の警察官には、鑑定書が作成される以前に傷がどうなつているということは判つていたのではないか。(答)心臓に達していることは判つていましたが、二度突いておるということは鑑定書が来て判然と判つたのであります。……中で傷が二つになつておるというような詳細なことは判りませんでした。(問)鑑定書が出来るまでにその事を知つていた警察官もあるのではないか。(答)私はその点は知りませんでした。」というのである。この点に関し、国警香川県本部から派遣され、宮脇警部補とともに、被告人の取調にあたつた田中晟警部及び広田弘巡査部長の各証言は、次のとおりである。田中晟461117証言「取調の主体は私で、宮脇さんと広田さんが補佐役で、場合によると調書をとります。」、26713証言「(問)(二度突きの自白にあたり)誘導その他違法な尋問を行つた事実はないか。(答)ありません。本人が最後に胸を突いたと自供したので、どういうふうにして突いたのかと尋ねると、馬乗りになつて最後に止めを刺すべく突いたと言うのです。それで突いたのは一回かと言うと、いや二回だと言うので、私は不思議でしたが、本人はその自供を最後までかえないのでした。ところが、鑑定書を見ると、二回突いたようになつて居たので、初めて本人が言つた事実の謎がとけたのです。(問)その鑑定書を見たのは何時か。(答)八月末頃と思います。」、広田弘26716証言「昨年(昭和二五年)の八月末頃であつたと思うが、田中係長から鑑定の結果を聞いて、左胸部の刺創が外部は一箇所、内部は二箇所になつている事実がわかつた。」、53529証言「(解剖に)正式には立会いませんが、ちようど現場検証並びに聞き込みをやつた際、被害者方の表で解剖をやつていたので、時々のぞいて状況を見たり、いろいろなことを聞いたりしていた。……(胸の傷が)とにかく表の外面上の傷が一つにかかわらず、この傷の内部は、V型になつていたという話は、医者か立会つていた者から聞いたと思う。」というのである。そして、再審公判における宮脇警部補及び田中警部の各証言の骨子は次のとおりである。宮脇豊56129証言「七月二九日二度突きの自白があり、同日午後五時ないし六時ころ、これを調書にした後、菅薫巡査から右自白に符合する創傷の有無を確認するよう進言され、直ちに本署(三豊地区警察署)へ電話で照会したところ、左胸部の創傷が外表で一個、内景で二個に分かれている旨の回答を得た。そこで、このことを実地に確認すべく、近くの八百屋でこんにやく五丁くらいを購入し、菅巡査を立会せたうえ、小使室で布に包んで重ねたこんにやく五丁くらいを刺身包丁で一回突き刺し、全部抜ききらずにもう一度突き刺す実験を繰り返して、その切り口を確かめたところ、二回目に突く際、方向を変えた場合はもちろん、被告人の供述するように同一方向に二回突いた場合でも、先端部の方で切り口が二つに分かれることが認められた。本署に電話で照会した相手は多分藤野署長であつたと思う。」、田中晟561110証言「私の取調開始後、四日目に被告人がはじめて本件犯行を自白し、その後の取調と供述調書の作成を宮脇警部補に委ねた。私が供述調書を作成したのは七月二八日被告人の否認の時点だけである。七月三〇日の朝宮脇警部補から被告人が前日二度突きの点を自白したことや、右自白が本署に照会した創傷の結果と符合することを聞かされて、その自白の重要性を悟り、自らこの点を確認するため、即日被告人を取調べたところ、被告人は、二度突きの点に関し、私が宮脇警部補から聞いたと同じ内容の自白をした。」というのである。なるほど、昭和二五年二月二八日午後五時ころ本事件が発覚するや、直ちに捜査本部が現地の善教寺に設けられ、藤野寅市(所轄三豊地区警察署長)が本部長となり本件捜査を開始したこと、そして、翌三月一日朝から犯行現場の検証が行われ、同日夕方から被害者方庭先で岡山大学医学部助教授上野博の執刀により被害者の死体解剖鑑定が行われたこと、同鑑定に際しては、同大学職員今村静生が鑑定人の口授する解剖所見を筆記し、また県本部鑑識課係員村尾順一がその要点をメモ(以下、このメモの浄写を村尾順一作成の鑑識課保管メモという。)したこと、そして、右解剖後同日午後九時ころより善教寺において鑑定人から解剖所見の報告があり、その際問題の左胸部の創傷についても創が外部所見では一個であるのに内景の肺において二個に分かれている創傷の形状について説明が行われたこと、この所見説明の場に出席した者は、前記藤野署長、則久同署次席、松村県本部鑑識課長ほか数名であつたこと、これらの捜査幹部から一般捜査員に対し右創傷の形状が周知された形跡はないこと、宮脇警部補は、当時三豊地区警察署高瀬警部補派出所々長の職にあり、本事件発覚後間もなく非常招集を受け、同年二月二八日夜から現地に赴き捜査の応援に従事し、翌三月一日犯行現場の検証に立会し、かつ同日以降同人の前掲証言のとおり広島での現任教養の期間を除き本件の捜査に関与したこと、そして、同年六月中ころ藤野署長から被告人の取調を命ぜられ、同月二一日被告人を高瀬警部補派出所に移監してその取調を開始し、同年七月二二日ころから県本部より派遣された田中警部及び広田巡査部長とともにその取調を担当したこと、しかし、同年三月一日夜善教寺で行われた鑑定人の解剖所見に関する前記報告の場には出席しておらず、当時もつぱら現場付近の聞き込み捜査に従事していたのであり、田中警部もまた同日昼ころ約三〇分程度現場の状況を観察したあと、予算上申のため間もなく上京し、被害者の死体解剖の場面やその後行われた所見説明の場には居合わせなかつたこと、そして、所轄警察署が上野博25825鑑定書を受理したのは公訴提起後の同年八月二七日であつたことが各般の証拠により容易に認められる。しかしながら、昭和五六年押第二九号の三九財田村強盗殺人事件捜査書類(捜査課)中の強盗殺人事件発生並捜査状況報告(第一報)と題する書面、田中晟561110証言その他関係各証拠によれば、田中警部は、当時県本部刑事部捜査課強行犯係長であり、本事件発生後間もない昭和二五年三月九日香川県警察隊長名の国警本部捜査課長及び広管本部刑事部長あて強盗殺人事件発生並捜査状況報告案(第一報)を起草したこと、右報告案は、所轄警察署からの書面報告と村尾順一作成の鑑識課保管メモに基づき、「1発生年月日時、2発覚年月日時及びその状況、3被害場所の状況、4被害者本籍、住居、職業、氏名、年令、5被害状況、6被害者の身上関係、7被害金品、8遺留品、9死体解剖所見断案、10捜査方針の樹立並びに捜査経緯、11捜査活動の概況」を記し、全文一四丁、一九八行に及ぶものであること、そして、死体解剖所見断案の項では、解剖所見の概要(創傷部位)として、当時判明していた被害者の創傷のうちから約五か所の傷を選び、特に左胸部の刺創については右創傷が失血死を来すに十分である(上野博25825鑑定書参照)がゆえに、「左胸部第四助骨の間に長さ二糎大の創傷あり深さ左胸腔に突き抜け左肺の左上葉に二箇所の傷あり」と記載し、もつて田中警部みずから右報告案を作成している事実が明らかに認められるのである。県本部刑事部捜査課保管の右報告書控(同年三月一一日付)は、村尾順一作成の鑑識課保管メモ等とともに、捜査の一資料でもあり、本件捜査の応援を命ぜられて被疑者の取調にあたる者がその準備として事前に閲読すべき資料の一つにほかならず、田中警部が、被告人の取調に先立ち、自己の草した自庁保管の右報告書控その他を十分記憶になければあらかじめ閲読し、かつ宮脇警部補からそれまでの取調の概要を聴取すべきことは、被疑者取調の任につく者として、自己のとるべき手順の必然であるといわなければならない。してみると、以上の事実並びに各証言を総合して考察すれば、被告人が昭和二五年七月二九日いわゆる二度突きの点を自白した当時、すでに藤野署長、則久次席ら所轄警察署幹部及び県本部派遣の田中警部、広田巡査部長らが、被害者の左胸部の創傷の状況を知つていたことは明らかであり、宮脇警部補もまた、たとえ藤野署長に電話で聞かなくても、田中警部、広田巡査部長の両名が応援のため派遣されて当時同じ派出所内にいたのであるから、事前に両名を通じ右創傷の状態を知りうる機会はいくらでもあつたのであり、みずから田中警部、広田巡査部長らの行う取調に同席しなかつたにしても、両名とともに被告人の取調を直接担当した同警部補一人が解剖の結果判明した右創傷の状況を当時まで知らないというがごときは断じてありえなかつたことを窺わせるに十分である。白川重男57616証言によれば、外回りの一捜査員にすぎない警察官白川重男でさえ、たまたま右創傷の形状に関する他の捜査幹部らの会話を耳にし、被告人の自白以前に右創傷の存在を知つていた事実が認められるのである。以上の認定に反する宮脇豊、田中晟、広田弘の各証言部分は採用できない。そして、他に右認定に反する信ずべき証拠はない。もつとも、創が外見上一個で内景において二個の創口に分かれる特異な創傷の成因は、いくつかの想定が可能であり、直ちに二度突きという刺し方に結びつくものでないことはいうまでもない。鑑定人上野博助教授においてすら54118(検)調書「この傷の成因というのは私達法医学者の方でも簡単に分かることではない。寝ている被害者を刃物で刺して抜こうとした時に被害者の起き上がろうとする行動と重なつて生じる場合その他数種の場合が考えられる。しかし、いずれにしてもこの傷だけからみてどのような原因で生じたのかというのは想像の域に入り、法医学の立場から話すことは危険である。」とされるのである。しかし、解剖の結果判明した特異創傷について、可能性としての成因が多岐にわたり、真の成因は犯人自身のみこれを語ることができるにしても、創傷の前記形状を知る取調官が特定の成因を抽象的に想定する余地のありうることもまた否定できない。果たして、藤野署長は、47129証言「(問)被害者の心臓を二度突きしていることは知つていたのですか。(答)はい、死体解剖に立会していたので知つています。」、5739証言「(問)心臓の二度突きという言葉そのものの意味は、あなたはよくわかつていたんですか。(答)これは単純に考えまして、心臓二度突きがどうこうというより、二つ傷が有ること、その状態を、もう心臓二度突きという意味を十分自分で、何といいますか、単純に考えまして、そういう現象のこと、一箇所で二つ傷があるということと思つて、そういうことを聞くんだなと思つて、そのような証言をしたのでございます。(問)そういう傷のことだと思つて、あなたとしてもそれなら死体解剖に立会つているので知つているというふうに答えたわけですか。(答)はい。」、57310証言「(問)そうしますとね、あんたは上野さんから説明も聞かず質問もなかつたとしても、あなた自身はそれは二度突いてできた傷だと推測したわけでしよう。(答)……まあ、二へん突いたのだから二つできたんだろう程度は、私自身としてはそういうふうに思つたんです。(問)その傷のできた原因について、専門家である上野先生はどういうように判断されたかは、その後あなたは聞いたことがありますか、ありませんか。(答)ありません。」と供述し、また、広田巡査部長は、461117証言「(問)谷口が自供したというが、その時点であなたは真実の自供だと今も思うのですか。(答)そら、本人でなければ言えない点があると思いますが、これは被害者は胸を刺されて死ぬと言うことでしたが、胸を刺されたことについて被疑者の自供では、刺身包丁で刺したが、血が出んので再び刺したが、血が出んのでこれは死んだと思つたと言つたのです。鑑定せられた医者の話では、包丁がV型になつとるのは、どうも納得できんと言つたということを外の者から聞いて、それだつたら二度突いたのでそうなつたのだろうと、私等は思つたのです。」と証言しているのである。広田巡査部長の右証言は、その前提たる質問を念頭において供述全体の趣旨を考察するに、被告人が二度突きの自供をした時点において、創傷の成因に関し、取調官らが右自供を通じ抱いた自己の判断を述べたやに窺われる節があるけれども、前記則久所轄警察署次席の証言もまた「(問)解剖後知つたということの御記憶のようですが、どういう傷だというふうに。(答)心臓か肺を二つ突いとるというようなことが、先生のお話、解剖後の先生のお話にあつたように、自分としては思つております。」(561021証言)というのであつて、結局以上の各証言を総合すれば、捜査幹部らの間に初期の捜査段階から特異創傷の成因は犯人が被害者の左胸部を二度突いた故であるとの共通の判断があつたものと認定するに十分であるといわねばならない。この認定に反する広田弘53529証言、54118(検)調書は採用できない。すると、二度突きという刺し方は、創の前記形状を知る取調官においてかような判断のもとに想定した創傷の成因にほかならないと疑うに足るから、宮脇警部補らの取調において被告人に対しその刺し方の暗示もしくは誘導がなされたとの疑いを抱かせる余地のあることを否定できないのである。このことは、被告人25727(員)調書第三回(宮脇警部補作成)「被害者が布団の上にいるうちは、胸の方を突いた最初の一突きだけで、後は突いたか突かぬか、血が出たか出ないか記憶にない。被害者が倒れてからは、胴巻の金を盗つた以外は同人の身体に手を触れたり、また刺したりはしていない。」との被告人の供述に徴すれば、宮脇警部補において、被告人が二度突きの点を自供する以前に、被告人からその自供をえようと試みこれを果たさなかつたあとが認められる点に照らし、窺い知ることができるものといわなければならない。宮脇警部補の証言する前記こんにやく実験は、たとえその実験が行われたにしても、以上の点からすれば、被害者の左胸部の特異創傷が果たして二度突きという刺し方によつて生ずるか否かを実地にこんにやくを用いて確かめ、もつてその成因を確認してみたにすぎないものと看取されるのである。また、白川重男57616証言によれば、被告人が二度突きの点を自白して間もないころ、所轄警察署の警察官らが招集日に本署へ集合した折、署員数名の間で雑談中被告人の右自白が話題に上つた際、署員のなかに「おい、お前、谷口うとうたが、決め手は取調官も知らなんだ胸の傷じや。あれ、お前、入口は一つで中が二つになつておつた。それ、取調官が知らなんだのに、うとうたのに間違いないわ。」と語る者のいたことが認められるけれども、右は前記自白の秘密性の有無に関し意見の相反する署員相互の間で交わされた会話の一部であり、事前に創の前記形状を知らなかつた一署員が単なる伝聞を語つたものにすぎないことが明らかであるから、これをもつて、被告人の取調を直接担当した宮脇警部補らに、二度突きの自白時点で、被害者の左胸部の前記特異創傷につき認識のなかつた証左とすることはできない。なるほど、被疑者の取調が、その純然たる自発的な陳述を聴くものであるとするのは極めて非現実的な考え方であるといえよう。また、否認する被疑者に対し一片の暗示や誘導なしにこれを取調べることは不可能といつても過言ではあるまい。しかしながら、誘導的な取調の疑いがある自白は、これに符合する事実そのものによつて、直接その真実性を確認することが困難であり、その自白の真否は、他に被告人を犯人と推断するに足る証拠のない限り、結局これを確かめることができないことは前にも述べたとおりである。してみれば、先に認定した被害者の左胸部の刺創が被告人の自白した二度突きによつて生ずる創傷であるにしても、このことは直ちに被告人の右自白が真実であることを保障するものではありえない。以上は、被告人のいわゆる二度突きの自白の真否を確認できない理由であり、ひいては被告人の自白全体の真実性につき確たる心証を形成しがたい理由の一つである。

4被害者の胴巻に血痕が付着していない点について

胴巻をめぐる被告人の供述は、先に掲げたとおり、取調の都度変転しているので、これを供述調書の作成日付順に要約すれば、25726(員)調書「私は、被害者を無茶苦茶に斬つたり突いたりし、倒れた被害者の右横からその胴巻をはずし、財布を出して金を盗つたあと、胴巻をその場に捨てた。被害者の傷は腰から上に多く、沢山の血が顔のほうや上半身から出て畳の上に流れていた。」、25729(員)調書「被害者の着物で包丁の血を拭きとり、白木綿の胴巻をはずし、これを縦にして振つてみたら財布が出てこないので、胴巻に手を一尺位入れて財布を抜き、金を盗つて財布をその場に捨てた。」、2582(員)調書「左手で胴巻の結び目を解いたうえ、振つても財布が出ないので、包丁を持つた右手の指を二本添え左手を胴巻のなかに突き込んで財布を取り出した。」、2584(検)調書「財布を畳の上に放り出し、胴巻は一部被害者の身体に巻きついたままで放つて置いた。」、2585(員)調書(第七回)「包丁を持つたまま両手で胴巻の結びを解いてこれを取り外し……財布は胴巻の中に戻したうえ、胴巻を被害者の腰のあたりに捨てた。」、25821(検)調書「包丁を持つた右手と左手で胴巻の結び目をほどき、左手で胴巻の端をつかんで引き出し、電灯のところへ行つて、左手で胴巻の片端を握り、他方の端を下にして振つたが、財布が出ないので、胴巻の口を右手に持ちかえ、左手を胴巻の口に入れて財布を取り出した。金を盗つたあと、財布を胴巻に戻し、胴巻は寝室と座敷の境にあつた着物かけに掛けたと思う。」というのである。被告人の供述は、その供述自体が示すとおり極めてあいまいであるが、以上いずれの供述をとるにしても、先に認定したとおり、被害者が、頭部、顔面、四肢部にかなり多量の出血を伴う多数の創傷を負い、現実にその流出した血液が現場四畳の間の布団、畳、ふすま等に付着、飛散しかつ畳の上に貯留していた(上野博25825鑑定書、2531(員)検証調書、現場写真)状況のもとにおいて、被告人の供述によれば、血で汚れた自分の両手や包丁を被害者の着物で拭いたうえ、その手で胴巻(長さ約一四〇センチメートル・2531(員)現場写真43参照)を取りはずして中の財布から金を盗り、犯行の帰途手や包丁などの血を川で洗い落した(2585(員)調書第七回、25821(検)調書)というのであるから、被告人の供述を前提とする限り、その手の汚れや現在の状況その他胴巻の長さ等にかんがみ、その胴巻には被害者の血が付着する公算は多分にあつたとみるのが自然であるといわなければならない。被告人の供述によれば、奪つた百円札数枚にすら血がついていたというのである(25821(検)調書)。しかるに、被害者の胴巻は、血痕のウーレン・フート氏人蛋白沈降検査による人血試験の結果、その反応が陰性であり、人血の付着を証明できなかつたことは、遠藤中節25826鑑定書(25811鑑定嘱託)、古畑種基2666鑑定書によつて明らかなところである。なるほど、自白の証明力を判断する場合において、被害者の創傷の多さや現場における血液の飛散状況等に目を奪われ、被害者の胴巻に血液が付着した可能性を強調し、その想定に見合う血痕の付着がないことをもつて、自白の真実性に疑いを投げかけることは、証拠の評価に際しとるべき適正な態度ではない。上野博25825鑑定書、古畑種基2666鑑定書によると、被害者の腹部に出血傷はなく、被害者が素肌に着用していた夏メリヤスシャツすら左胸部の創傷にかかわらず意外にも僅かな血痕が付着しているにすぎなかつた事実が認められる点からすれば、当時被害者の胴巻にその血液が付着しない公算もまたありえないことではなかつたとみる余地があり、富田功一571012鑑定書(胴巻関係)は、実験的にその余地のありうることを示すものである。しかしながら、本件事案において、前掲各証拠を通じ認められる諸般の状況を仔細に観察すれば、被告人が、たとえ手や包丁の血を丁寧に布で拭つたにしても、帰途なお血を洗い落したというその汚れた手をもつて、前に掲げたように、胴巻の結び目を解いたり、これを被害者の腹部から引き外したり、縦にして振つてみたり、包丁を持つた右手の指を二本添えてみたり、左手を胴巻の中に一尺位突つ込んで財布を取り出したり、財布をもとの胴巻に戻したりするいずれかの動作の過程において、被告人の手や布団、畳その他に前述のとおり付着、飛散、貯留していた被害者の血が長さ約一四〇センチメートルにも及ぶ胴巻に移着しないという保障は全くないのであり、被害者の胴巻に血痕の付着が認められないのはいかにも不自然であるとの感を免れない。このことは、胴巻をめぐる被告人の供述が前記のとおり変転していることと併せて考察すれば、被告人が真実自己の体験しない事実を述べたことによるのではないかとの疑いさえ生ぜしめ、ひいては被告人の自白全体の真実性に疑問なきをえない理由の一つであるといえる。

5自白に符合する血痕足跡がない点について

被告人の自白(25821(検)調書)に符合する血痕足跡が犯行現場に印象されていない点は、本件において自白の真否をめぐる争点の一つである。なるほど、2531(員)検証調書によれば、犯人の残した血痕足跡は、被害者の死体の左胸部横にあたる血糊のなかに一個、開いた両足の中間に一個、これより四尺二寸五分東方に一個、更にこれより三尺四寸東方に一個、更にこれより三尺四寸五分東方に一個、順次出口に向かい以上合計五個印象されていたにすぎないことが認められる。しかしながら、右は2531(員)検証調書、現場写真によつて認めうる足跡の形状その他歩幅等にかんがみれば、犯人が血だまりのなかに片足(被告人は右足であるという。2585(員)調書第七回参照)の靴を踏み入れた結果、その踏み込んだところからはじまる片方の靴のみによる血痕足跡であつて、これと交互に運んだ他方の足の足跡すら全く印象されていない事実が明らかに認められるから、この点よりすれば、本件の場合、血痕足跡と明認できる足跡は、血だまりのなかに足を踏み入れ多量の血が履物の裏面に付着した場合にはじめて印象されるものであつたことが明らかであるといわねばならない。しかるに、靴を血だまりのなかに踏み込んだ時期については一連の自白を通じて被告人の全く供述しないところである。しかも、現場での犯行状況に関する被告人の供述は、他の諸点についての被告人の供述同様、取調の都度変転し、犯行の順序や態様についてもまた供述相互間に幾多のくいちがいがみられ、かような供述を録取した自白調書のなかにあつて、25821(検)調書に記載された被告人の供述のみを措信すべき特段の事情が認められないことは、既述のとおりである。してみれば、右調書に録取された被告人の供述のみを前提としてその行動に符合する血痕足跡の有無を争うことは、事案の焦点を離れた無意味な応酬にすぎないから、この点につきその余の判断をしないこととする。要するに、自白(25821(検)調書)に符合する血痕足跡が犯行現場に印象されていない点は、本件において被告人の自白の真実性を疑うべき理由とはならない。

五  着用の上衣に関する被告人の供述について

1この点に関する供述の要旨は次のとおりである。

25726(員)調書「私は、犯行当夜、青色サージS字入り上服(進駐軍放出の古品)、その下に国防色綾織上服(警察の服)を着ていた。犯行の帰途、帰来橋の手前で、S字入り上服の胸のあたりに夜目にもベットリと血の付いているのが分かつたので、川に降り、これを脱いで丸洗いし、自宅でも午前六時半ころ石けんをつけて洗いなおした。」

25727(員)調書(第三回)「一週間位後にも自宅の井戸端で石けんをつけて上服などを洗つたので、血は全然ついていないと思う。」

25729(員)調書「上服は綾織木綿地の青みがかつた国防色の袖にボタンの付いた警察職員用夏服で、兄から二年位前にもらい外出用にしていたものを着用していた。前に述べた上服は間違いである。」

2582(員)調書「只今還付を受けた国防色綾織夏服上衣は当夜着ていた上服である。」

2585(員)調書(第七回)「寒かつたので綾織警察制服の上に進駐軍放出のS字入り濃緑上服を重ねて着た。S字入り上服は、右胸のあたりに点々と二、三か所、一番下のほうにベットリと直径二寸位の大きさに血が付いており、右袖の内側の先のほうにも点々と血の飛沫が五か所位ついていた。帰来橋のところで上服などの血を洗い、翌朝六時半ころ自宅でも上服の胸のあたりと下のほうに付いていた血痕をズボンとともに石けんをつけてよく洗つた。」

2585(員)調書(第八回)「当夜着ていた上服は進駐軍放出のS字入りが本当で、綾織警察官用服と述べたのは嘘である。」

25811(検)調書「警察官用国防色綾織上服の上に進駐軍放出物資の濃緑色で左胸にS字入りの上服を着ていた。」

25821(検)調書「進駐軍の放出物資である国防色S字入りの上衣、その下に警察官用国防色綾織りの服を着用していた。帰来橋を渡つて右へ折れ二、三間位行つて河原へ降り中程の水ぎわで進駐軍放出物資の上衣等を洗い、午前六時半ころ自宅で国防色進駐軍用上衣は丸ずけにし石けんで洗濯したが特に血のついていた胸とすそ、右そで等を特別入念に洗つて竿に干した。証一八号は当夜着用の進駐軍用放出物資S字入り国防色上衣、証二一号は同じく警察官用国防色綾織上服である。」

2被告人着用の上衣について

着用の上衣に関する被告人の供述は、以上のとおり、二種類の上服を重ねて着たとし(25726(員)調書、2585(員)調書第七回、25811(検)調書、25821(検)調書)、あるいは単にその一着を着用したとし(25729(員)調書、2582(員)調書、2585(員)調書第八回)、果たしていずれの供述に真実があるのか不明である。しかし、被告人の供述する進駐軍払い下げのS字入り国防色上衣は証一八号国防色上衣として、同じく警察官用国防色綾織上服は証二一号国防色綾織軍服上衣として、いずれも原第一審及び当審において押収せられ、被告人が右各上衣を自己の所有であるとしかつ当時証一八号国防色上衣を着用していた事実を認めたことは、被告人の原第一審公判廷における25116供述によつて明らかなところである。してみれば被告人が、おりから季節は二月末の未だ寒い時季であり衣料品もまた乏しい時代であつた点よりすれば、当日右各上衣をその供述通り重ねて着用していたと認定しても別段不合理ではあるまい(証二一号国防色綾織軍服上衣は、神田農協強盗傷人事件の証拠物として、昭和二五年四月一二日被告人の任意提出により領置され、同年五月一一日裁判所がこれを押収し、同年六月三〇日右事件の裁判確定により、間もなく警察官を介して同年八月一日これを被告人に還付し、即日本件証拠物として再び被告人の任意提出により所轄警察署においてこれを領置したものである。証一八号国防色上衣は、被告人の兄武夫らが畑の藁積みの中に一時隠匿していたものであり、領置調書の提出がないため、その押収手続は不明である)。ところで、被告人は、前記のとおり、自己の着用した上衣には被害者の血が付着していたので、これを洗濯したから血は全然ついていないと思うというのである。なるほど、古畑種基2666鑑定書によれば、証一八号国防色上衣、証二一号国防色綾織軍服上衣は、いずれもベンチジン試験(間接法)による血痕予備検査の結果、反応が陰性であり、何ら血痕の付着を証明できなかつたことが認められる。さらに、古畑種基・池本卯典46510鑑定書によつてもまた、右各上衣は、ベンチジン(間接法)及びルミノール各試験による血痕予備検査の結果、反応が陰性であり、いずれも血痕の付着の認められなかつたことが明らかである。そして、田岡正雄54731付「国防色上衣等の血痕鑑定の有無の調査結果について」と題する書面その他関係各証拠によれば、証一八号国防色上衣については、右各鑑定に先立ち、昭和二五年八月ころ岡山大学医学部教授遠藤中節によつて、証二〇号国防色ズボン(後述)等の血痕鑑定の際、右ズボンと同じくルミノール試験による血痕予備検査が行われ、その検査の結果もまた陰性であつたことが窺われるのである。思うに、自己の着用した上衣に付着した被害者の血を洗濯により洗い落し、もつて罪跡を隠滅した旨の供述は、その隠滅の事実を他の証拠によつて証明しない限り、供述の真否を確認できないから、血痕鑑定によつて上衣につき血痕の付着が認められなかつた以上、被告人着用の上衣は、果たして洗濯により血痕がすべて消失したのか、それとも最初から血が全く付着していなかつたのか、いずれとも断定できないのである。してみると、証一八号国防色上衣に被害者の血が付着しこれを洗濯により洗い落したとの被告人の前記供述は、本件では誰一人その目撃者のいたことが認められないため他にその真否を判定する方法がなく、その供述の真実であることを確認することができない。しかしながら、本件再審開始決定を是認した抗告審の決定は、洗濯血痕の検査に関する船尾忠孝521210鑑定書をいわゆる新証拠であるとし、右鑑定書によれば、被告人の供述する洗濯によつて着衣の血痕反応が陰性化することはありえないとし、着衣の洗濯に関する被告人の供述に虚偽であるとの合理的疑いがあることを理由として再審の開始を認めたものであるから、進んで更に血痕予備検査の反応に及ぼす洗濯の影響を検討してみることとする。

3洗濯の影響について

この点に関する諸家の見解は次のとおりである。

古畑種基・池本卯典461213回答書「衣類などに人血が付着した場合、付着直後乾燥しないうちに石けんを使つて二回にわたり洗たくすると、血痕予備検査、血痕実性検査及び人血検査が不可能になることはありうると考えられる。しかし、一般にはよほど注意して洗たくしなければ、血液型抗原が繊維などの間にごく微量でもしみついて残ることがある。もし国防色上衣に血痕が付着しても、その直後前記のように石けんを用いてよく洗濯した場合には、鑑定書に記載した血痕検査法によつて検出不可能なことはありうると思われる。」

三上芳雄5384鑑定書・531016証言「人血を付着させた一五センチメートル四角の木綿布を自然乾燥させ、洗剤を使用し洗濯機によつて洗濯(一五分間洗剤で洗い三〇分間水洗いする)し乾燥させると、血痕の付着部位は不明となる。同じ方法による洗濯、乾燥をさらに二回(合計三回)行つた場合でも、ルミノール及びベンチジン(直接法)各試験とも陽性に反応した。本件において犯人が国防色上衣を人血付着後間もなく一回水洗いし、その後四時間してから石けんを使用して洗濯したとすれば、上記実験の結果のごとくなるものと思考される。しかし実際では鑑定資料に対する人血付着部位の広狭、付着血痕の多少、洗濯の方法(例えばもみ洗い等)により左右され、場合によつては血痕予備試験が陰性になることは否めない。」

船尾忠孝521210鑑定書・52213・52313各証言「衣類付着血痕について、付着血痕量、付着後水洗い又は石けんによる洗濯までの経過時間、洗濯程度、被付着布片の種類などによつて多少異なるが、一般的には水洗い又は石けんによる洗濯によつてルミノール化学発光試験及びベンチジン反応試験(直接法)は影響されないといわれており、木綿ギャバジン織あるいはさらし木綿の各布地に人血を付着させた後間もなく五分間流水中にさらして水洗いし、更に四時間後石けんを使つてもみ洗い(五秒間)、すすぎ(五秒間)を二度くり返し、自然に乾燥させて三か月後に血痕予備検査を行つたところ、ルミノール反応及び直接法によるベンチジン反応についてはほとんど影響がなく、間接法によるベンチジン試験は反応が減弱したが陰性化はほとんど認められなかつた。以上の実験結果によると、血痕付着後間もなく水洗いを一回、その後四時間位してから石けんを使つて洗濯しても、ルミノール反応並びにベンチジン反応(間接法)が不可能になることはないと推測される。」

船尾忠孝37820松山事件報告書・39114同事件証言「白木綿布に血液を滴下させ日の当らない部屋で一時間放置し、女子職員二名に十分(ベンチジン反応が陰性になるように洗濯すれば賞品を与えると伝える)いろいろな石けんをつけて一〇分間洗濯させた場合、あるいは血痕付着一時間後に流水中に一七時間浸漬せしめ前同様一〇分間十分洗濯させた場合、いずれもベンチジン直接法は陽性であつたが同間接法は陰性であつた。ズボンにヌルヌルと多量の血液が付着したと仮定して、更に普通の洗濯を二度行つた程度ではベンチジンによる血痕予備検査の反応が陰性となることはありえない。」

平島侃一発表の「水浸により処理された血痕の血痕検査成績」と題する論文(科学と捜査五巻二号所載)「木綿、ラシャ、絹に人血を点状に付着させ、付着後自然乾燥で三ないし五週間の間にこれら材料を適当の大きさに切り、簡単洗濯(水道水で五回揉む)あるいは入念洗濯(簡単洗濯の場合と同様の動作を加えて肉眼的に血痕部が認められない程度まで洗濯し、二%石けん水に一時間水洗いを加える)してベンチジン(直接法)検査したところ、簡単洗濯では陽性を示し、入念洗濯では疑陽性を示し、ルミノール試験でも、簡単洗濯では陽性であり、入念洗濯では陰性である。」

富田功一571012鑑定書(上衣関係)「証一八号国防色上衣の布地に類似した木綿布地(約三〇×四〇センチメートル)を用い、これに撥水処理を施したうえ、多数の人血を滴下付着させ、付着から約一〇分後の水洗い(五、六分間)及びその約四時間後の洗濯用固形石けんを用いてのもみ洗い(第一回実験では四、五分もみ洗いして二回程ゆすぎ、第二回実験ではもみ洗い及びゆすぎを合計六、七分間行う)という二段階の洗濯を施した後、ルミノール試験及びベンチジン試験(間接法)を行つた結果、第一段階の水洗いで手もみを加えなかつた第一回実験では、一六例の洗濯のうち三例は、ルミノール及びベンチジン各試験とも、布地全体について殆んど陽性を示さず、あとの一三例は陽性、擬陽性、陰性の各部分が混在しており、次に第一段階の水洗いで手もみを加えた第二回実験では、七例の洗濯のうち四例は、ルミノール反応が布地全体について陽性を示さず、あとの三例は約半数の血痕が陰性化し、残り約半数の血痕(陽性)もその後のベンチジン試験の結果では弱陽性か陰性に終つた。」

以上の実験結果を整理すれば次のとおりとなる。

(1) 人血付着後三ないし五週間の間に水道水で五回もむ(平島簡単洗濯)

ベンチジン試験(直接法) 陽性

ルミノール試験 陽性

(2) 人血付着後間もなく五分間流水中にさらし、更に四時間後に石けんを使つてもみ洗い(五秒間)、すすぎ(五秒間)を二度くり返す(船尾実験)

ベンチジン試験(直接法) 陽性

ベンチジン試験(間接法) 陽性

(但し減弱)

ルミノール試験 陽性

(3) 人血付着後自然乾燥させ、洗剤を用い洗濯機で一五分間洗い三〇分間水洗いし、これを自然乾燥させ、同じ方法による洗濯乾燥を合計三回くり返す(三上実験)

ベンチジン試験(直接法) 陽性

ルミノール試験 陽性

(4) 人血付着一時間後に石けんを十分につけて一〇分間もみ洗い(船尾実験)

ベンチジン試験(直接法) 陽性

ベンチジン試験(間接法) 陰性

(5) 人血付着一時間後に流水中に一七時間浸漬の後十分に石けんをつけて一〇分間もみ洗い(船尾実験)

ベンチジン試験(直接法) 陽性

ベンチジン試験(間接法) 陰性

(6) 人血付着後三ないし五週間の間に水道水でもみ肉眼で血痕の付着部位が不明となるまで水洗いした後、二%石けん水で一時間水洗いを加える(平島入念洗濯)

ベンチジン試験(直接法) 擬陽性

ルミノール試験 陰性

(7) 多数の人血付着約一〇分後に五、六分間水洗い(手もみを加えない)、その約四時間後に洗濯用固形石けんを用いて四、五分間もみ洗いし二回程ゆすぐ(富田第一回実験)

ルミノール試験、ベンチジン試験(間接法)とも

一六例の洗濯のうち三例は殆んど陽性を示さず、あとの一三例は陽性、擬陽性、陰性が混在する

(8) 多数の人血付着約一〇分後に五、六分間水洗い(手もみを加える)、その約四時間後に洗濯用固形石けんを用いてもみ洗い及びゆすぎを合計六、七分間行う(富田第二回実験)

ルミノール試験

七例の洗濯のうち四例は陽性を示さず、あとの三例は約半数の血痕が陰性、残り約半数の血痕が陽性を示す

ルミノール試験後のベンチジン試験(間接法)

ルミノール試験陽性の血痕も弱陽性か陰性となる

以上の実験結果に諸家の前記見解を総合して考察すれば、衣類に付着した血痕は、その量、付着の仕方、付着後の経過時間、布地の種類、材質、洗濯の時期、方法、回数、程度、検査の方法など諸般の条件の相違により、その血痕予備検査の結果もまた異なり、以上の実験結果を通じ、血痕反応を陰性化せしめる洗濯の程度を判定する基準を考えることは極めて困難である。けだし、以上の各実験における洗濯は、そのいずれをとつても、被告人の供述する洗濯と基本的にその条件を同じくするものはないのであり、被告人の述べる洗濯もまた、その回数すら二回とも言いあるいは三回とも述べこの点自体真偽は不明であるのみならず、「特別入念に洗つた」と供述するところが抽象的であり具体性に欠けるため、これを前記各実験の採用した洗濯の程度と比較対照してその洗濯効果を判定することが不可能であるといつてよい。思うに、記録を通じ認められる諸家の見解によれば、洗濯の目的は、本来、付着した血液がわからないようにすることにあるから、肉眼的には全く血痕の付着した痕跡を残さない場合も少なくないとされ、斑痕を全く識別できない場合は、布地に付着させた血痕の所在場所をあらかじめ認識して行う洗濯実験とは異なり、血痕の付着を疑わせる部分(可検斑痕)がないため検査の仕様がなく、血痕の検出が不可能となる場合のあることは否めないとされるのである。すると、以上の諸点を考慮すれば、被告人が供述する程度の洗濯では「ルミノール及びベンチジン(間接法)反応が不可能になることはない」と推断した船尾忠孝521012鑑定書は、独断のきらいがあり、本件において血痕予備検査を不可能ならしめる洗濯の程度を判定する基準とするに不適当であり、古畑種基・池本卯典461213回答書、三上芳雄5384鑑定書に示された洗濯血痕の検査に関する前記見解がむしろ科学的経験則として妥当かつ適切であると考える。

4上衣の洗濯について

この点に関する被告人の供述の要旨は、先に掲げた供述を要約するに、証一八号国防色上衣には、右胸のあたりに夜目にも分かるほどベットリ点々と二、三か所に、一番下のほうにベットリと直径二寸位の大きさに、それぞれ血がついており、右袖の内側の先のほうにも点々と血の飛沫が五か所位ついていた。犯行の帰途帰来橋のところで河原へ降り、上衣を脱いで丸洗いし、午前六時半ころ自宅でもこれを丸ずけにして石けんで洗濯し、とくに血のついていた胸とすそ、右そで等を特別入念に洗つた。一週間位後にも石けんをつけて上服などを洗濯したので、血は全然ついていないと思うというのである。もとより、被告人の述べる血痕付着の状態や洗濯の回数及び程度等は、その供述が一貫性に欠けるため定かではないけれども、被告人の語るところによれば、25729(員)調書「夜逃げる途中暗がりで洗つただけでは血が十分に落ちていないと気になり……」、2585(員)調書(第七回)「朝六時半ころ起きて見たら上服の胸のあたりと下の方にボツボツと血痕がついているし……家の者に知られぬ間に井戸端で石けんをつけてよく洗つた。」、25821(検)調書「朝起きて一人で先に朝食をすませ、上衣は丸づけにし、ズボンは血痕のついているところをつまみ洗いし……身体はつらかつたけれども無理して午前七時ころ常のごとく山へ炭焼きに行つた。」というのであるから、いくら特別入念に洗つたといつても、洗濯した衣服は上衣、下衣各一枚であり、その洗濯の程度には時間その他においておのずから限界があつたものとせざるをえないであろう。してみると、前記実験の採用した洗濯が、いずれも限られた面積の布片を用い、これに付着させた血痕の所在場所を認識し、血痕予備検査の反応に及ぼす洗濯の影響をみるため、実験としていわば意図的になされた洗濯であり、かような洗濯においてすら血痕予備検査の反応が陰性化する例は前記のとおりさほど多くない点にかんがみれば、証一八号国防色上衣が、先に認定したとおり、ベンチジン(間接法)及びルミノール各試験による血痕予備検査の結果、その反応がいずれも陰性であり、血痕の付着を証明できなかつた点にいささか疑問の余地がないとはいえない。しかしながら、被告人の述べる洗濯は、すでに指摘したとおり、その回数すら二回とも言いあるいは三回とも述べこの点自体真偽は不明であるのみならず、「特別入念に洗つた」と供述するところが抽象的であり具体性に欠けるためこれを前記実験の採用した洗濯の程度と比較対照することが極めて困難であり、結局その洗濯の程度を被告人の供述自体によつて確認できるものではないのであつて、仮に被告人の供述通り洗濯によつて被害者の血を洗い落し証一八号国防色上衣に血が全然付着していなかつたとすれば、古畑種基・池本卯典461213回答書、三上芳雄5384鑑定書に照らし、ベンチジン(間接法)及びルミノール各試験による血痕予備検査をもつては、血痕の検出が不可能となる余地のあつたことを否定できないのであるから、結局かかる見地よりすれば、上衣の洗濯に関する被告人の前記供述をもつて直ちに虚偽の疑いがあるものと断定することはできない。要するに、被告人着用の証一八号国防色上衣は、前に説示したとおり、果たして洗濯により血痕がすべて消滅したのか、それとも最初から血が全く付着していなかつたのか、いずれとも決し難いため、右上衣に被害者の血痕が付着しこれを洗濯により洗い落したとの被告人の前記供述は、その真実なることを確認することができないというにとどまる。

六  着用のズボンに関する被告人の供述について

1この点に関する供述の要旨は次のとおりである。

25726(員)調書「犯行時の下服は黒のサージ(海軍の下ズボン)である。午前六時半ころ起きて見るとこのズボンにも「スネ」のあたりに血が付いていたので石けんで洗つた。」

25727(員)調書(第三回)「犯行時着ていた海軍用下ズボンは、当夜と朝六時ころに洗い、一週間位後にも自宅の井戸端で石けんをつけて洗つたから、血は全然ついていないと思う。」

25729(員)調書「下服は紺色毛織の古いものを着用し……夜が明けてみると膝のあたりに血がついていたので、そのところだけ石けんをつけてつまみ洗いをした。」

2584(検)調書「黒いズボンをはき……」

2585(員)調書(第七回)「木綿の黒ズボンを着ていたが、この黒木綿下服は右股のすそ付近に点々と血が三か所位についており、午前六時半ころ自宅の井戸端でこれをよく洗い、本年七月中旬にも当派出所の風呂場で洗つた。」

2585(員)調書(第八回)「前に黒サージ下服とか海軍の下服と申したのは嘘である。本当は今着ている黒木綿の下服を犯行時に着用しており、父が本年二月ころ外出用として買つてくれたものである。当日朝と当派出所に来て七月中旬ころ一回洗つたと思う。本日任意提出する。」

25811(検)調書「黒色ズボンは、よく考えてみると、神田農協強盗傷人事件で勾留中に、父が買つて差し入れてくれたものであるから、本件のときはまだ持つておらず、当時着用していたズボンは国防色の中古ズボンである。」

54814(検)調書「当時は黒サージと国防色ズボンの二着しか持つていないし、黒サージは生地がよいので外出用に着用していたから、本件のときに国防色ズボンをはいて行つたことは間違いない。」

25821(検)調書「国防色の中古ズボンをはき……午前六時半ころ起き国防色ズボンは脛から下の血痕のついているところをつまみ石けんで洗濯した。証二〇号は当夜着用の国防色ズボンである。」

25825(検)調書「前に黒色木綿ズボンをはいていたと申し血痕付着の状態を述べたが、この血痕は実際にはいていた証二〇号国防色ズボンに大体そのとおり付いているはずである。」

2被告人着用のズボンについて

この点に関する被告人の供述は、以上のとおり、まず海軍の黒サージ(25726(員)調書)、海軍用下ズボン(25727(員)調書第三回)を着用していたとし、ついで紺色毛織古ズボン(25729(員)調書)であるとし、さらに黒いズボン(2584(検)調書)、木綿黒ズボン(2585(員)調書第七回)、黒木綿下服(2585(員)調書第八回)であつたと変更し、最後に右各ズボンとは全く色合いの異なる証二〇号国防色ズボン(25811(検)調書、25814(検)調書、25821(検)調書、25825(検)調書)を着用していたとの供述に一変し、順次その供述を変更しているのである。被告人の述べるところは、その供述自体が示すとおり、極めてあいまいなものであつて、果たして当時右各ズボンのいずれを着用していたのか不明であり、その供述の取捨判断に苦しまざるをえない。心からの反省をくり返し、一たび述べた「本当の供述」を後にまたすぐ変更し不審な推移をたどるのが被告人の供述の常であり、着用のズボンに関するかような矛盾する供述のなかにあつて、証二〇号国防色ズボンを着用していたとの前記供述のみを措信すべき特段の事情は認められないのである。被告人は、25811(検)調書において、「黒色ズボンは、よく考えてみると、神田農協強盗傷人事件で勾留中に、父が買つて差し入れてくれたものであるから、本件のときはまだ持つておらず、当時着用していたズボンは国防色の中古ズボンである。」と述べ、着用のズボンを黒木綿下服から国防色中古ズボンに変更した理由を説明しているけれども、被告人の右供述を除き、他に黒いズボン(黒木綿下服)が、右事件で被告人の勾留されている間に、父菊太郎から被告人に対し差し入れられた物であることを認めうる証拠はないのである。かえつて、被告人が着用のズボンを証二〇号国防色ズボンに変更した最初の供述(25811(検)調書)は、昭和二五年八月七日捜査官が岡山大学医学部から右ズボンに人血が付着しているとの血痕鑑定の結果通知に接した(25826「強盗殺人事件検挙について」と題する報告書)直後の供述変更である点にかんがみれば、捜査官の誘導に基づく被告人の迎合的陳述であるとの感を免れない。もつとも、被告人が、昭和二五年四月一日神田農協強盗傷人事件の際、証二〇号国防色ズボンを着用していたことは、次項の「国防色ズボンの押収経過について」の判断において示すとおりであり、また証二〇号国防色ズボンに被害者の血液型と同じO型の血痕が付着していたことは、後に「国防色ズボンの血痕について」の項において述べるとおりである。そこで、以上の各点が、証二〇号国防色ズボンを犯行時に着用していたとの被告人の前記供述を措信すべき特段の事情にあたるかどうかにつき、次項以下において順次考察を試みることとする。

3国防色ズボンの押収経過について

証二〇号国防色ズボンを領置した経過は以下のとおりである。すなわち、被告人は、神田農協強盗傷人事件につき、自己の着用していた国防色の上衣、下衣各一点を昭和二五年四月一二日任意提出して即日所轄警察署に領置されたこと(被告人25412(員)調書、15412領置調書謄本)、そして、右証拠品は、同月一四日検察庁へ保管替により同庁領置票に符八号として領置され、同年五月一一日公判提出により証一二号として裁判所に領置され、同年六月三〇日右事件の裁判確定により、被告人に還付するため同年七月ころ警察官に交付されたこと(宮脇豊56129証言、25414検察庁領置票謄本、原田定一54716(検)調書)、しかし、被告人は、当時本件につき被疑者として所轄警察署の取調を受けており、同年八月一日右証拠品の還付を受けるや再びこれを任意提出し、国防色上衣は番号四七国防色綾織夏服、同下衣は番号四六国防色下服として同日直ちに領置され(2581領置調書、被告人2582(員)調書・この供述調書の作成日付の記載は争いのあるところであるが、供述調書をもつて任意提出書に代えその作成を省略したのであるから、右は供述調書の作成日付の誤記もしくはその関係部分の記載を「昨日還付を受けた……」旨記載すべきであるのにこれを誤つて録取したものにすぎない。)、同月二三日検察庁保管替にあたり同庁領置票に番号四六国防色下服を「符二〇号国防色ズボン」、番号四七国防色綾織夏服を「符二一号国防色綾織夏服」として領置され(25823検察庁領置票謄本)、同年一一月六日公判提出により符二〇号国防色ズボンは「証二〇号国防色ズボン」として領置され(原第一審領置目録)、当審においてもまたこれを昭和五六年押第二九号の二〇国防色ズボンとして押収したものである(当審押収物総目録)ことは以上の各証拠により明らかである。供述調書をもつて任意提出書、押収品目録交付請書に代える取扱いは、事務規程の整備された今日からみれば、隔世の感にたえないけれども、これに基因する前記過誤は供述調書の記載の誤りにすぎず、2581領置調書に「改訂証二〇号」、「裁判所提出」の記載が脱落している点は周到を欠いた事務上の過誤であり、原第一審公判調書に記載された検察官の冒頭陳述中の被告人の着衣の部分から「証二〇号国防色ズボン」の記載が欠落している点もまた明らかに公判調書上単なる記載場所の誤りにすぎない(被害者の着衣等の欄に誤つて証二〇号と記載されている)ことは、関係各証拠を通じ容易に認められるところである。してみると、証二〇号国防色ズボンの押収手続における以上の各点は、25412領置調書の国防色下衣、2581領置調書の国防色下服と原第一審及び当審における証二〇号国防色ズボンの同一性に疑惑を抱かせるものではありえない。要するに、被告人が、昭和二五年四月一日神田農協強盗傷人事件を犯した際、証二〇号国防色ズボンを着用していたことは、以上により明らかなところである。しかしながら、このことは被告人が右事件をさかのぼる同年二月二八日本事件発生の当日もまた証二〇号国防色ズボンを着用していた事実を直ちに推認せしめるものではない。谷口勉(被告人の兄、元警察官)44620・44830各証言、谷口孝(被告人の弟)44927証言によれば、証二〇号国防色ズボンは、敗戦後の物資の不足していた時代であつたため、当時まで数年間被告人の兄勉はもとより被告人やその弟孝もはいていたのであつて、被告人ら男兄弟三人が共用していた事実を認めるに足り、当時被告人がもつぱらこれを着用していたものではないことを窺わせるに十分である。してみれば、被告人が昭和二五年四月一日証二〇号国防色ズボンを着用していた事実は、これをさかのぼる同年二月二八日本事件の当日被告人が同ズボンを着用していたとの被告人の前記供述の信用性を完全に保障するに足るものではない。

4国防色ズボンの血痕について

証二〇号国防色ズボン付着の血痕に関する被告人の供述の要旨は、「ズボンの右股のすそ付近に点々と血が三か所位に付いていた。」(2585(員)調書第七回、25825(検)調書)というのであり、きわめて漠然とした供述であつて、血痕の大きさ等についてもまた何ら具体性のみるべきものがない。被告人がズボンを画き血痕を図示したところ(2585(員)調書第七回添付図面)によつても、ズボンの前面に赤点を三つ描いているのみであり、その具体性を欠く点は被告人の右供述と択ぶところはないのである。なるほど、遠藤中節25826鑑定書(2581鑑定嘱託・以下遠藤鑑定という)、古畑種基2666鑑定書(以下古畑第一鑑定という)によれば、証二〇国防色ズボンには、右脚前面の下半部、右脚後面の下端に被害者の血液型と同じO型血痕の付着していた事実が認められる。しかしながら、右各鑑定書に当裁判所が証二〇号国防色ズボンを検したところを総合して考察すれば、両鑑定人によつて発見された右血痕は、捜査官が鑑定人の留意を促すためあらかじめ赤色のやや太い線で丸く囲んだ汚斑一九か所以外から発見され、同ズボンの右脚前面の下半部に約四個(うち二個はいずれもけしの実大)、右脚後面の下端付近に二個(うち一個は半米粒大、他の一個はけしの実大)、以上合計約六個であつて、いずれも暗褐色ないし黒褐色のきわめて微細な小斑点にすぎず、遠藤鑑定人によれば、「ルーペ」で検すると飛沫血痕のように見えたというのであり、何人にも一見して血痕と識別できるものではなかつたことを認めるに十分である。このことは、捜査官が鑑定人の留意を促すためあらかじめ赤丸を施した一九か所にも及ぶ前記汚斑がすべて血痕ではないと鑑定され、捜査官すら鑑定人によつて発見された証二〇号国防色ズボンの前記血痕を肉眼をもつて識別することができなかつた事実に照らし明らかであるといわねばならない。してみれば、ズボンの右股のすそ付近に点々と血が三か所位に付いていたとの被告人の前記供述は、いわば超微量の小斑点にすぎないかような血痕を果たしてその肉眼をもつて発見できたかに多大の疑問があり、果たして右血痕そのものを指した供述であるやの点に疑いなきをえないのである。ことに、血痕付着の部位について被告人の述べるところは、ズボンの脛あたり(25726(員)調書)、膝あたり(25729(員)調書)、右股のすそ付近(2585(員)調書第七回)、脛から下(25821(検)調書)と順次変転し、ズボンの左右いずれを指すやの点を含め漠としてその認識した確かな部位は不明であるといわなければならない。しかるところ、遠藤鑑定及び古畑第一鑑定の結果を総合すれば、血痕の付着は、先に述べたとおり、証二〇号国防色ズボンの右脚前面下半部及び右脚後面の下端付近に僅かな血痕が付着していたにとどまり、同ズボンのその余の部分の可検斑痕(血痕の付着を疑わせる部分)は、すべてルミノール及びベンチジン(間接法)各試験による血痕予備検査の結果、反応が陰性であり、血痕の付着を証明できなかつたことが明らかである。すると、ズボンの洗濯に関する被告人の供述によれば、「ズボンは、当夜と朝六時ころに洗い、一週間位後にも自宅の井戸端で石けんをつけて洗つたから、血は全然ついていないと思う。」(25727(員)調書第三回)というのであるから、証二〇号国防色ズボンに残された前記血痕は、先に認定したとおり、いわば超微量の小斑点にすぎなかつた点に照らし、被告人においてこれを発見できず仮につまみ洗いしたとしても明らかに看過したものとみられ、被告人が「ズボンの右股のすそ付近に点々と血が三か所位についており自宅でこれをよく洗つた。」(2585(員)調書第七回、25825(検)調書)と供述し、もつて自ら視認したと称する血痕は、結局鑑定人によつて発見された前記血痕ではなかつたものと認めるのが至当である。供述との関連性を欠く補強証拠によつてその供述の真実性を保障しえないことはいうまでもない。してみれば、証二〇号国防色ズボンに先に認定した血痕が付着していた事実は、同ズボン付着の血痕に関する被告人の前記供述の真実性を保障するものではないのみならず、本事件の際被告人が証二〇号国防色ズボンを着用していたとの被告人の供述が真実であることを保障するものではありえないのである。そして、証二〇号国防色ズボン付着の血痕に関する被告人の前記供述(2585(員)調書第七回、25825(検)調書)は、取調官が昭和二五年八月七日遠藤鑑定人の結果通知に接し同ズボンに人血の付着を知る以前になされた供述であるけれども、以上に説明したとおり遠藤鑑定によつて発見された前記血痕そのものを指した供述ではないと認められる点に照らし、その供述の秘密性を問題とする余地はないものといわなければならない。なお、ズボンの洗濯に関する被告人の供述は、上衣の場合同様、その供述の真否を確認しうべき限りではないのであつて、その理由は、「着用の上衣に関する被告人の供述について」の判断において示したと同旨であるから、あらためて論及しないこととする。要するに、証二〇号国防色ズボンは、鑑定人によつて発見された前記血痕の付着していた部分を除き、その余の部分は、果たして洗濯により血痕がすべて消滅したのか、それとも最初から血が全く付着していなかつたのか、いずれともこれを断定することができない。してみると、証二〇号国防色ズボンに被害者の血が付着しこれを洗濯により洗い落したとの被告人の前記供述は、その真実であることを確認することができないのである。

5国防色ズボンの血痕鑑定について

被告人が昭和二五年四月一日神田農協強盗傷人事件の際証二〇号国防色ズボンを着用していたこと、このズボンに先に認定した血痕の付着していたことは、以上に述べた理由により、いずれも被告人が本事件の際同ズボンを着用していたとの被告人の供述の真実性を保障するものではありえない。要するに、着用のズボンに関する被告人の矛盾変転した前記各供述は、果たしていずれの供述に真実があるのか全く不明であり、被告人が本事件の当日証二〇号国防色ズボンを着用していた事実はこれを確定することができない。しかしながら、証二〇号国防色ズボンの血痕に関する古畑第一鑑定及び同第二鑑定(古畑種基・池本卯典46510鑑定書)は、これによれば同ズボンに被害者の血液型と同じO型血痕の付着していたことが明らかであるから、その血痕の付着した時期に関する証明力のいかんによつては、着用のズボンに関する被告人の供述が真偽不明であつても、自白の真実性を保障し又は自白と独立して犯罪が被告人によつて行われたことを間接に推認せしめる有力な情況証拠たるを失わない。そこで、古畑第一鑑定及び同第二鑑定の証明力につき順次考察を加えることとする。

古畑第一鑑定について

この鑑定は、古畑種基2666鑑定書を指し、この鑑定書に記載された証二〇号国防色ズボンに関する血痕鑑定の経過の要旨は、「同ズボンにはケシの実大の斑痕三個(右脚前面の中央よりやや下方に二個、右脚後面の下方に一個)及び半米粒大の斑痕一個(右脚後面の裾部)が認められ、いずれもベンチジン反応陽性であり、抗人血色素沈降素による人血反応も陽性であつたから、これらが人血であることは確実である。しかし、血痕が微量でありその一つ一つについて検査をすることは困難であるから、これらを集めて血液型の検査を行つた結果、抗O凝集素を吸収し抗A及び抗B凝集素を吸収していないので、血痕の血液型はO型と判定される」とし、その鑑定の結果は「確定判決の認定判断について」の項で示したとおりである。船尾忠孝521210鑑定書(船尾鑑定という)は、古畑第一鑑定を妥当でないとし、その理由の骨子は、(1)血痕が微量であり血液型の判定は不可能である。(2)四個の血痕様斑痕はその大部分が人血反応試験によつて消失するから、これらを集めて血液型の検査を行つたとの記載は理解できない。(3)微量血痕を集めて血液型の検査を行う手法は、医学上非常識であり、抗O凝集素がO型のみならず他の血液型の血液にも吸収される性質を持つから、O型でない血液をO型と判定し、あるいはO型血液が存在しないのにO型と誤つて判定される危険が高く、その判定の結果は適正妥当なものとはいえないというのである。血痕の検査は、まず血痕予備検査(ベンチジン反応試験、ルミノール化学発光試験その他)により陽性反応の有無を確認し、ついで実性反応検査(ヘモクロモーゲン結晶法その他)により血液であるか否かを判定し、さらに生物学的検査(ウーレン・フート氏法、抗人血色素沈降素血清法その他)により果たして人血であるかどうかを鑑別し、最後に血液型検査(凝集素吸収試験その他)により血液の個人鑑別を行うものとされる。船尾鑑定は、要するに、古畑第一鑑定の採用した右血液型検査の手法をその鑑定書の記載から判断して非常識であると手厳しく批判しその鑑定の結果もまた適正妥当ではないというものであるが、船尾鑑定の結果は三上芳雄5384鑑定書に照らしにわかに採用しがたく、古畑第一鑑定の結果を措信すべきものと認める。その理由は、再審開始決定を是認した抗告審の決定理由中「古畑第一鑑定の信用性について」の項の1、2において右抗告審が詳細に言及しているので、あらためて論述しないこととする。してみれば、証二〇号国防色ズボンに被害者の血液型と同じO型の血痕四個が付着していた事実は、前にも述べたとおり、優にこれを認めることができる。遠藤鑑定によつて人血の付着が確認された被検血痕約二個もまた、古畑第一鑑定の結果に照らし、その血液型はO型であつたことを推認するに十分である。ところで、犯人とされる者が事件当日着用した衣服に血痕が付着している場合において、その血液型が被害者の血液型と一致するときは、反証のない限り、その者は真犯人と認定することができよう。しかしながら、被告人が本事件の当日証二〇号国防色ズボンを着用していた事実は、先に述べたとおりにこれを確定することができない。すると、被告人が証二〇号国防色ズボンを着用し本件犯行に及んだとの事実は、同ズボンに前記血痕の付着した時期が本事件の発生とその時期を同じくすることの証明なき限り、とうていこれを推認しうべき限りではない。しかるに、古畑第一鑑定は、証二〇号国防色ズボンに前記血痕の付着した時期をその鑑定の結果のみならず遠藤鑑定その他関係各証拠によつて確認できるものではないのであつて、同ズボンに前記血痕の付着した時期は不明である。もつとも、証二〇号国防色ズボンの前記O型血痕は、昭和二五年四月一日被告人が共犯者石井方明とともに犯した神田農協強盗傷人事件の被害者近藤肇の血液(O型)が付着したとみられる形跡のないことはもとより、同ズボンを長い間着用していた被告人の兄勉が警察官(昭和二五年八月一五日退職)として在職中に関与した鉄道自殺者岩川光照なる者の血液(A型)が付着したものでないことは証拠上明らかである。そして、証二〇号国防色ズボンに他に人血の付着する機会のあつたことは、被告人をはじめ兄勉や弟孝(いずれも血液型はA型)ら同ズボンの着用者全員の全く弁明しないところである。なるほど、日常生活において自己の衣服に他人の血液が付着した場合その付着した機会をその衣服の着用者において全く自覚しないというがごときは異例に属するといえよう。しかし、先に認定したとおり、証二〇号国防色ズボンは、そもそも中古品であつて、戦後被告人の兄勉はもちろん被告人やその弟孝ら男兄弟三人が共用していたズボンであり、かつ同ズボン付着の前記O型血痕が肉眼をもつて識別できないほど極く微細な小斑点であつた事実よりすれば、同ズボンの右着用者からその血液の付着した機会につき首肯しうる具体的な弁解がなされないからといつて、直ちに同ズボンの前記血痕が本事件の際に付着したものと断定することはできない。被告人がその自白のなかで犯行後洗濯の際みずから視認したと称する血痕が同ズボン付着の前記血痕を指したものでないことは前に認定したとおりである。してみれば、証二〇号国防色ズボンに被害者の血液型と同じO型の前記血痕が付着していた事実は、被告人の自白の真実性を保障するものではないのみならず、被告人が本事件の当日証二〇号国防色ズボンを着用し本件犯行に及んだ事実を間接に推認せしめるに足りない。以上は古畑第一鑑定をもつて被告人を本事件の犯人と推断する証拠とするに足りない理由である。

古畑第二鑑定について

この鑑定は、古畑種基・池本卯典46510鑑定書を指し、この鑑定書に記載された証二〇号国防色ズボンに関する血痕鑑定の結果の要旨は、「同ズボンは、その右裾部の後側で、すでに前の鑑定(古畑第一鑑定)のために切り取つたと思われる部位に隣接したところに、付図2のとおり淡赤褐色の付着斑が認められ(付図2によれば、赤く印した部分を線で囲んだところが二箇所あり、一方に0.4×2.0センチメートル、他方に0.2×0.6とそれぞれ記載されている。)、これについて検査した結果、右は人血痕であり、その血液型はO型であると判定された。」というのである。古畑第二鑑定の結果は、これを措信するに十分であるけれども、右鑑定人らによつて発見された被検血痕二個の付着時期にいささか疑問のあることを否定できない。もとより、古畑第二鑑定は証二〇号国防色ズボンに右血痕二個の付着した時期をその鑑定自体によつて確認できるものでないことはいうまでもない。しかし、池本卯典53626・55613各証言、古畑第一鑑定、岡嶋道夫53626・55221・55614各証言によれば、証二〇号国防色ズボンは、古畑第一鑑定において、多少なりとも血痕の付着を疑わせる部分には余すところなくべンチジン試験(間接法)を施行した結果、前記のとおり右脚後面ではその裾部にケシの実大一個、半米粒大一個の暗褐色の各斑痕が発見されたにすぎないこと、しかるに、古畑第一鑑定より二〇年後に行われた古畑第二鑑定において、右斑痕に隣接した部分にいずれも淡赤褐色の0.2×1.0センチメートル及び0.1×0.4センチメートルの二個の血痕が肉眼で認められたこと、この血痕二個は、その面積においてケシの実大及び米粒大と表現された前記斑痕よりはるかに大きく、その色調もまた淡赤褐色であつたというのであるから、古畑第一鑑定の当時付着していた可検斑痕である限り、その血痕予備検査において当然陽性の反応を示したとみられること、ところが、古畑第一鑑定には古畑第二鑑定によつて視認された血痕二個に関する記載の全くないことが認められる。もつとも、三上芳雄5384鑑定書に関係各証拠を総合して考察すれば、古畑第二鑑定の被検血痕二個は、遠藤鑑定人がルミノール試験の結果陽性の反応を呈した小斑点を囲んだ白丸の中から発見され、その色調はきわめて薄い赤褐色であつたのであり、血液型もまた古畑第一鑑定の被検血痕と同じくO型であるのみならず、古畑第一鑑定の採用したベンチジン試験(間接法)の手技(蒸溜水で湿した綿棒等で血痕の付着が疑われる部分を順次こすつた上、その都度綿棒等にベンチジンの試薬をつけ青藍色の呈色反応をみる作業をくり返す)並びに原田定一54716(検)調書、清水博54628実況見分調書、中野勇54630・5473(検)各調書等によつて認められる証二〇号国防色ズボンのその後の保管状態にかんがみれば、前記血痕二個が、古畑第一鑑定の際の見残しあるいは切り残しであつたとみる余地は多分にあるといわなければならない。しかしながら、血痕の古さの鑑別は、結局その血痕のもつ色相、明度及び彩度の観察に頼るほかはないのであり、色調の表現が大いに鑑定人の主観に左右されるにしても、血痕の色調は時日の経過につれておおむね暗赤色・黒暗赤色―赤褐色―褐色―帯緑褐色―帯黄緑色―淡黄色―褪色と変化するのを常とし、古畑第二鑑定の被検血痕二個の色調が淡赤褐色であつた点は、遠藤鑑定及び古畑第一鑑定によつて発見された血痕約六個の色調が暗褐色ないし黒褐色であつた事実に比照すれば、その付着時期の相違を窺わせるものがあるのみならず、古畑第一鑑定の鑑定書には先に認定したとおり古畑第二鑑定の被検血痕二個に関する記載の全く欠けていることもまた古畑第一鑑定の時点において右血痕二個が付着していた事実を疑わせる事由の一つにほかならない。古畑第二鑑定は、要するに、検査の対象とされた血痕二個の付着した時期に、以上の疑問があつて確たる心証を形成しがたいのであり、古畑第一鑑定とは異なる理由のもとに、本件において犯罪が被告人によつて行われたことを推断する証拠の一つとするをえないのである。

七  黒皮短靴に関する被告人の供述について

1この点に関する供述の要旨は次のとおりである。

25726(員)調書「靴は黒短靴(牛皮十文三分)で、裏は前の半張りが皮、かかとがゴムであつた。相当古いもので海軍靴のように先が丸く、表皮が破れかかつており、半張りには鋲を打つてあつた。その靴は、私が四月二日ころ強盗傷人をやつて帰つた朝午前七時ころに兄勉が勤務先に持つて帰つた。」

25727(員)調書(第二回)「黒短靴は、兄勉の物で、私が履物に困り昨年二月ころから兄勉より借りて履いていた。」

2584(検)調書「私の手記(後述)では陸軍の編上靴を履いていたと書いたが、黒の短靴が本当である。兄勉に迷惑がかかるといけないと思い途中から編上靴に変えた。」

2585(員)調書(第七回)「右足の靴で血を踏んでいるのでその裏には沢山血がついていると思う。帰途帰来橋に出て川の中に降り血のついた靴の裏や上服等を充分に洗つた。」

25821(検)調書「靴は当時使用中の黒皮製短靴にしようと考え……座敷表口に置いてあつた黒靴をはいて出た。」

2黒皮短靴について

この点に関する被告人の供述は、他の諸点についての供述とは異なり、以上に掲げたとおりほぼ一貫しており、被告人が本事件発生の当日もまたその供述する黒皮短靴をはいていた事実を窺わせるに十分である。

3黒皮短靴の押収について

被告人供述の黒皮短靴は、昭和二五年四月一日神田農協強盗傷人事件発覚の直後、被告人の兄武夫らが父谷口菊太郎の耕作する畑に埋めて隠匿したこと、そのため右事件の証拠物として領置できず、その公判期日にこれを提出することができなかつたこと、ところが、昭和二五年八月五日被告人の兄勉(当時警察官同月一五日退職)が検察官中村正成の追及により右隠匿事実を告白し、ついで被告人の兄武夫がその提出を承諾し、警察官において同人の指示する畑に赴きその隠匿場所を捜索した結果、野積みの推肥の下からこれを発見し押収するに至つたこと、しかし、押収された黒皮短靴は、検察官において証拠価値に乏しいと判断した結果、本事件の証拠物として公判廷に提出されなかつたこと、そして、昭和三三年一二月二日被告人の父谷口菊太郎に還付されたことは、関係各証拠により明らかなところである。

4黒皮短靴と血痕足跡の照合について

捜査官の推定した犯人の靴の種類は、「血痕足跡の形状より推察するにズック靴の底であるとの確信的な断定を得た。」、「血痕足跡は旭印黒色ズック靴の十一文に符合し」「十一文の靴で足跡を印するに若干異なるところもあるが中古品であれば完全に符合するのではないかと思料される。」(吉田正勝25319報告書)、「当時ズック靴ということも考えていた。」(宮脇豊451118証言)というのであつて、捜査官が初動捜査の段階において犯行現場に残された血痕足跡はむしろズック靴によつて印象されたものと判断したあとが顕著に窺われる。しかし、先に認定した黒皮短靴が発見されるや、「実験の結果革底靴でも現場に遺留されたような血痕足跡は残ることがわかつた。」(宮脇豊451118証言、幸王一二46814回答書、小口勝美461022回答書)としながら、黒皮短靴と血痕足跡を照合した結果に関する捜査官の証言の要旨は、「靴と血痕足跡とは若干寸法を異にしていたので、田中警部がこのような物は証拠にならん、被告人が嘘を言つているのだということで、証拠には出さなかつた。」(宮脇豊29628証言)、「靴と現場の足跡とはほぼ符合したが、公判が順調に進行していたので、証拠物として提出せず警察で保管していた。……腐触していて証拠にならないと思い検察庁に送付しなかつた。」(宮脇豊451118・46128各証言)、「黒皮短靴は、長期間畑に埋められ梅雨期を過したため、その腐触がひどく靴全体がふくれあがり著しく変形していたので、これを犯行現場に残された血痕足跡と照合することが不可能であつた。」(宮脇豊57210証言等)というのであつて、その供述は順次変転し一貫するところがない。黒皮短靴が押収されるや、直ちにその血痕鑑定を依頼したけれども、黒皮短靴から血痕は検出されず(遠藤中節25826鑑定書・25811鑑定嘱託、村尾順一57525・57526各証言)、捜査官が被告人に黒皮短靴を示しその陳述を求めた形跡すら認められないのである。被告人を犯人と推断するに足る物的証拠のない本件において、黒皮短靴が血痕足跡と符合する限り、これを証拠として法廷に提出しないがごときはありうべからざることといわねばならない。要するに、検察官が黒皮短靴を証拠として提出しなかつたのは、証人宮脇豊29628証言のとおり、靴と血痕足跡とが若干寸法を異にし、押収された黒皮短靴によつては犯行現場の血痕足跡が印象されることはないと判断した結果にほかならないと疑うに足る十分な理由がある。してみれば、黒皮短靴と血痕足跡の照合に関する以上の疑いは、黒皮短靴をはき本件犯行に及んだとの被告人の自白が真実自己の体験しない事実の陳述ではないかとの疑いを生ぜしめ、その自白全体の真実性に強い疑問を抱かせる理由の一つである。

5屋外の足跡等について

本事件発生の翌日に行われた現場検証の際、被害者方屋外において、母屋西南隅露地にズック靴の足跡一個、母屋裏側あかり取りガラス窓壁際に靴様の足跡一個、母屋表軒下に買出用の国防色リュックサック一個(森下照一名入り)の遺留品が発見されたことは、2531(員)検証調書によつて明らかである。しかし、捜査の結果、ズック靴の足跡一個は、事件の発生を知つて被害者方に集つた近在の者又は被害者(闇米ブローカー)方に闇米を買いにきた者らの足跡とみられ、遺留品のリュックサック一個は、右買出人の一人である森下直秀が遺留したものと確認され、捜査機関においていずれも本件とは関係がないものと判断したことが認められる。もつとも、靴様の前記足跡一個は、自白調書中にこれにそう被告人の供述がみられるけれども、単に靴様とされる足跡にすぎず、かつ黒皮短靴が前記のとおり当時未発見であつたため、黒皮短靴と照合することが不可能であつた結果、被告人の残した足跡であるか否かを確認することができなかつたものと認められ、結局被告人の右供述はその真否を確認しうべき限りではないのである。

八  凶器の刺身包丁に関する被告人の供述について

1この点に関する供述の要旨は次のとおりである。

25726(員)調書「刺身包丁は、隠し置いた自宅炊事場の竹棚からこれを取り出し……犯行の帰途帰来橋の手前で川に降り包丁等を洗い……轟橋まできて包丁は持つていても証拠となるので橋の右(北)側に思いきり投げ棄てた。」

25727(員)調書(第二回)「刺身包丁は、昭和二三年八月ころ財田上の青年学校炊事場から盗み、自宅炊事場竹棚の一番奥に隠して置いた。」

25729(員)調書「包丁は轟橋から右斜前方に財田川の中へ投げ棄てた。相当強く投げたので二、三十メートルは飛んだと思う。包丁を盗んだのは昭和二二年頃で包丁差しにあつた二丁のうち小さい分を盗んで帰つた。」

2582(員)調書「包丁は、青年学校炊事場に三丁位あり、そのうちの中位の大きさのものを盗み、自宅風呂場の焚口の上に隠して置いたが、これを取り出し砥石で一〇分位磨いだ。」

25821(検)調書「風呂場の焚口の戸のさんに右足をかけ焚口のレンガに左足をかけ上の横木を手でつかんで養蚕用の木の下から刺身包丁を取り出した。ところが、指で包丁の横をなでてみると錆びているらしかつたので、砥石の置いてある井戸端へ行き、洗面器にかめから水を汲み出し、先ず荒砥に水をかけて研いだ後、今度は金剛砥石で磨ぎ、刃に指を当ててみるとよく切れそうになつたので研ぐのを止めたが、研ぐ時間は約一五分位かかつたように思う。包丁を研ぎ終つてこれをバンドの左腰に裸のままさし……帰来橋を渡つて河原へ降り包丁等を洗い……轟橋で右手の取付きから西方へ向かい財田川の三、四十メートル位の水中へ包丁を投げ捨てた。包丁を捨てたのは持つておるのを人に見つかると怪しまれると考えたからである。」

2本件の凶器について

この点に関する被告人の供述は、一貫して刺身包丁であるというのである。なるほど、被害者の三十数個に及ぶ創傷が、衝突、擦過、強圧等に由来する表皮剥脱あるいは皮下出血等を除き、すべて有刃の尖器による刺創あるいは切割創等であつたことは、上野博25825鑑定書によつて明らかであり、本件の凶器を刺身包丁と推定しても不合理ではない。船尾忠孝53325鑑定書中これに抵触する部分は、上野博54118(検)調書、三上芳雄53523鑑定書に照らし採用することができない。しかし、刺身包丁の入手先に関する被告人の供述は、以前に財田上青年学校炊事場から盗んだというのであるが、これを確認するに足る十分な証拠がないため、その真偽は不明である。

3刺身包丁が発見されていない点について

凶器の刺身包丁の隠匿、投棄の場所に関する被告人の供述は、前記のとおり、その隠匿の場所を自宅の炊事場の竹棚(25726(員)調書)から風呂場の焚口の上の養蚕用の木の下(2582(員)調書)に変更し、またその投棄の場所を自宅の井戸(宮脇豊56128証言参照)、自宅近くの野井戸(田中晟561110証言、2916(裁)検証調書参照)、財田川(25726(員)調書等)と順次変更しているのである。もとより被告人の右供述を裏書する証拠は全くない。投棄したとされる凶器の発見は、犯罪が被告人によつて行われたことを推認せしめる間接事実である。しかし、藤堂輝雄2583凶器捜査報告書、2916(裁)検証調書によれば、凶器とされた刺身包丁は、被告人の語るその投棄と場所を後日いずれも徹底的に捜索したけれども、これを発見するに至らなかつたことが明らかである。なるほど、刺身包丁の財田川への投棄は、被告人の供述によれば、昭和二五年二月二八日であるというのであり、捜査機関によるその捜索は、同年八月三日に行われたことが認められるから、投棄が真実である限り、その五か月後になされた捜索までに刺身包丁が流失又は埋没し去つたとみる余地もあろう。しかしながら、罪跡を隠滅した旨の供述は、前にも述べたとおり、その隠滅の事実を他の証拠によつて立証しない限り、供述の真否を確認できないから、捜索によつて凶器が発見されなかつた以上、その刺身包丁は、果たして流失したか埋没したか、または投棄しなかつたかいずれとも断定できず、結局刺身包丁の投棄に関する被告人の前記供述は、その述べるところが変転していることと相まつて、供述そのものの真実性自体に疑いなきをえないのである。このことは被告人が真実自己の体験しない事実を陳述したことによるのではないかとの疑問さえ生ぜしめ、ひいては右供述と不可分の関係にある被告人の自白全体の真実性に疑いを抱かせる理由の一つにほかならない。

九  奪取金員に関する被告人の供述について

1この点に関する供述の要旨は次のとおりである。

25726(員)調書「私が奪つた金は、犯行の夜自宅で算用すると、百円札で一万五、六千円、十円札で二千円位、計一万八千円位であつた。この金は、三月八日ころ宮坂屋で酒を飲み七百円位、大久保律子方で菓子を買い三百円位、三月一五、六日ころ琴平の遊廓岩崎楼に登楼して千円位、その後他の遊廓で五千円位、三月下旬琴平の飲食屋で酒を飲み五百円位、映画等で三百円位、飲食店「五郎八」で千円位、三月中旬丸亀の飲食店、映画館で七、八百円位、西原喫茶店で四百円位支払い、三月下旬ころまでに費つてしまつた。」

25729(員)調書「盗んだ金は、三月五日ころ宮坂屋で三、四百円位、大久保律子方で二百円位、二、三日して琴平の「五郎八」で飲食代三百円位、借金払いに七百円位、三月中旬ころ遊廓岩崎楼で七百円、十日位して同遊廓で七百円、きまま楼で七百円、松原楼で四百円、三月二十日ころ琴平の飲食店で四百円位、他の飲食店で三百円位、三月一五日ころ高松で映画を見たとき汽車賃その他で千円、三月十日ころ琴平の飲食店で三百五十円位、宮坂屋で五百円位支払い、合計七、八千円位費つたと思う。このほかにもまだ支払つたところがあると思うが忘れた。」

2584(検)弁解録取書「盗んだ金額は、一万八千円位ではなく、約一万三千円位だつたように思う。」

2584(検)調書「金を算えてみると、百円札が百十枚位、十円札、五円札で約二千円位あつた。この金は、三月中に、琴平新地の岩崎で千四百円位と八百円位、松葉で四百円位、きままで七百円位、飲食店「ゴロ八」で三千円余、新地内の飲食店で七百円位、琴平へ映画見物やたばこ銭等に三百円位、金丸座を出た角の飲食店で三百円位、宮坂屋で七百円位、大久保菓子店で三百円位、丸亀の映画見物、闇市の飲食店で五、六百円位、琴平新地の赤橋を渡る手前の飲食店で四百円位費つたが、その他は十分記憶しておらない。」

2585(員)調書(第七回)「当夜弟の寝静まるのを待つて奪つた金を数えてみると、百円札で一万一千円、十円札で二千円位、合計一万三千円位あつたと思う。盗んだ金は、三月三日宮坂屋で三、四百円、日時ははつきりしないが、琴平の「五郎八」で三千円、他の飲食店で七百円位と四、五百円位、岩崎楼で千八百円位、松葉楼で四百円、気侭楼で七百円位、金丸座を出たところの飲食店で三百円位、宮坂屋で千五百円位、丸亀で七百円位、映画等に三、四百円支払い、全部費つてしまつた。品物は買わず借金も払つていない。」

25821(検)調書「私は弟孝が寝入るのを見て盗つた金を数えてみると、百円札で百十枚位、十円札、五円札で二千三百円位あつた。この一万三千円余りの金は、犯行後二、三日より私が神田村の強盗傷人事件で検挙されるまでの間、琴平町、財田村等の飲食店、映画見物その他に約五、六千円使つたが、その模様は今までの取調で述べたとおりである。この金を使うに当たつては、一度に沢山使つては人目につくので、できるだけ少額あて使うようにしたが、一方宮坂屋飲食店等では代金をことさら借りてみたり、多田安次から五百円を前借りしたりしたことは、このような方法をとれば香川殺しの嫌疑もかからぬと考えたからである。被害者方で盗つた金のうち残額約八千円の処分については、今まで隠してきたが、この金は使つておらず、四月一日午後六時ころ神田村農業会の強盗傷人事件の容疑者として、三豊地区警察署の人達が家宅捜索及び私の逮捕にきた際、その前の強盗未遂事件のとき警察官が私方へ来てすぐ捜索をした点より考えて、また捜査されるだろうと思い、その場合発見されると困るので、八畳座敷の間で服装を取り替えるとき、私の背広の内ポケットに入れてあつた百円札約八十枚位を私の黒色オーバーの襟の内側の小さなポケットに丸めて差し込んで隠した。勿論このオーバーは家へ置いておく考えであつたが、警察へ連れられて行くとき、警察官がオーバーを着て行くよう申したので、仕方なくそれを着て、警察官七、八名と共にトヨペットに乗つたが、警察へ行けば身体検査をされるので、当然その金も見つけられ、本事件も発覚するおそれがあるので、警察へ着くまでに何とか金を処分しなくてはならぬと考え、暗夜を財田から観音寺行きの県道を走る途中、財田村財田中の小野精米所から約半町位左寄りの道に差しかかつた際、警護員に気付かれぬようオーバーの内ポケットから金を抜き出し、斜め左向きになつて、ほろの窓より、つばをはくような風をして、ほろと車体の間に指を差し入れ金を落した。」

2奪取金員の額について

この点に関する被告人の自白は、以上のとおり、「金一万八〇〇〇円位」(25726(員)調書)、「金一万三〇〇〇円位」(2585(員)調書第七回、2584(検)弁解録取書、2584(検)調書)、「金一万三三〇〇円位」(25821(検)調書)と順次変転し、果たしてどの供述に真実があるのか不明である。もとより被告人の右供述を裏書する証拠は全くない。かかる供述のなかにあつて金一万三〇〇〇円位盗んだという供述のみを措信すべき特段の事情は、認められないのである。「小銭は盗んでもつまらんと考え、百円札と十円札全部を盗つた。」との被告人の供述(25821(検)調書)は、現場で発見された被害者の財布に十円札五枚が依然在中していた事実(2531(員)検証調書)に照らし、不審とされる点の一つである。被害の金額に関する香川ツネ(被害者の妻)の証言は、前に「確定判決の認定判断について」の項に掲げたとおりであり、久保国助(被害者の隣人)の証言もまた「被害者がもらい風呂に私方を訪れた最後は事件の十日程前であるが、以前に胴巻の現金は一万円か二万円位と言つていたから、その時も身につけていた胴巻にそれ位入つていたと思う。」(2621証言)旨の供述にすぎないのであり、いずれも想像ないし推測の域を出ないものであつて、奪取金額に関する被告人の前記自白の真実性を十分に保障するものではありえない。

3奪取金員の使途及び投棄について

この点に関する被告人の供述の要旨は、先に掲げたとおり、「奪つた金は飲食等に全部費つてしまつた。」(25726(員)調書、2585(員)調書第七回)、「内金五〇〇〇円位を費い残額約八〇〇〇円(百円札八〇枚位)は四月一日夜神田農協強盗傷人事件の容疑者として検挙され警察署に連行される途中ひそかに車外に捨てた。」(25821(検)調書)というのである。奪取後に金員を消費した事実(使途)は金員の奪取を推認せしめる間接事実の一つである。そして、犯人とされる者の供述にあまた疑点のあり自白の信用性が疑われる案件において、奪取金員の使途を追及しその裏付捜査を遂げることは、奪取金の使途いかんによりなるほど困難な作業であるに相違ないにしても、犯人とされる者の自白の真否を確認するため、捜査機関として欠くことをえない作業である。本件においてかかる作業の成果にみるべき十分なものがないのみならず、被告人の述べる個々の費消金額を合計してもその奪取したと供述する前記金額をはるかに下回るため、取調の終局においてにわかに「奪つた現金の費い残り約八〇〇〇円(百円札八〇枚位)は護送される途中ひそかに車外に捨てた。」旨の供述変更(及び後掲25819手記の同旨の記載)となつたものであることは、奪取金員の使途に関する前記供述の経過を通じ、かつ費消先の裏付けに関する今井国太郎外五名2687(裁)各尋問調書にかんがみれば、容易に看取されるのである。奪取金の投棄に関する被告人の右供述もまた、たとえ八〇〇〇円の投棄自体は可能であつたにしても、その拾得者や目撃者のあつたことは証拠上認められず、供述そのもの自体の真実であることを保障する証拠は全くない(それゆえ、八〇〇〇円の投棄その他の単なる可能性をいう点は、本件において問題とするに及ばないから、この点につき判断を示さないこととする)。なるほど、被告人には既述のとおり当時返済の容易でないはずの多額の借金があつたこと、被告人が昭和二五年三月中に飲食店(五郎八)経営者今井国太郎に対し毎月の小遣銭を上回る一四〇〇円ないし二〇〇〇円の支払いをしたことは、今井国太郎2687(裁)尋問調書その他関係各証拠によつて認められるところであり、また被告人が当時約八〇〇〇円の現金を所持していたとしても、そのことから直ちに神田農協強盗傷人事件を犯した動機に疑問を生ぜしめるものでないことは被告人の犯罪歴等に照らし肯認されよう。すなわち、石井方明26713証言によれば、同事件の共犯者石井方明は当時二、三万円の現金を所持していながら被告人とともに現に同事件を敢行していることが認められ、被告人もまた後に述べるとおり当時未成年ながらすでに犯罪の常習者であつて、共犯者石井方明同様、安易に犯行に走る傾向のきわめて顕著であつたことは各般の証拠を通じて明らかである。しかしながら、賍金に関する被告人の前記供述は、先に述べたとおり、奪取金額の点はもちろん、その使途ことに約八〇〇〇円の投棄の点につきその真実であることを保障する証拠は全くないのであり、その供述が前記のように変転していることと併せて考察すれば、全体としてその信用性に疑いなきをえないのである。このことは被告人が真実自己の体験しない事実を陳述したことによるのではないかとの疑いさえ生ぜしめ、ひいては被告人の自白全体の真実性に疑問なきをえない理由の一つである(犯罪を実行した者が奪取金額及びその使途のみこれを偽る場合もありえないことではないけれども、被告人の場合がそれにあたることを確認できない以上、賍金に関する供述に虚偽の疑いがあることは、被告人が真実犯行に及んだ事実がないことによるのではないかとの疑いさえ生ぜしめ、その自白全体の真実性に疑いを抱かざるをえない理由となるのである)。

一〇  被告人の自白の任意性及び信用性について

被告人の自白の真実性を疑うべき理由は、以上「犯行の状況に関する被告人の供述の変遷について」、「被害者の胴巻に血痕が付着していない点について」、「黒皮短靴と血痕足跡の照合について」、「凶器の刺身包丁が発見されていない点について」、「奪取金員の額及び使途等について」の各項で詳細に述べたとおりである。要するに、被告人の自白はその真実性を疑うべき数多の理由がある以上これら疑いの理由を合理的に一掃できない限りにわかに信用するをえないのである。なるほど、被告人の自白は、死罪にあたる重大な事実についての陳述であり、その内容は具体的かつ詳細をきわめ、たとえ捜査官の暗示や執拗な誘導に基づくものがあつたとしても、現実に犯罪を実行しない者が果たしてかような自白をなしうるであろうかとの感を抱かせるものがある。ことに、犯行の動機、計画に関する被告人の供述は犯行の決意、計画の点を除き仔細に及ばないのみならず、被告人のいわゆる二度突きの自白には、刺身包丁による刺し方の詳細や被害者の左胸部からの出血状況を指摘する点など、第三者が知る由もなく、その供述に真に迫る部分のあることを否定できない。また、犯行に付随する事情に関し、「被害者方付近の厳島神社の前の階段に腰を下ろし一、二時間くらい時間待ちをした。」(25729(員)調書)、「被害者宅の前まで来ると、久保追之助の方に行く道の上で、約三〇メートル位離れて人影があつたようなので、厳島神社の東側の林の中に約一〇分間くらい身を隠した。」(25726(員)調書)、「急いで被害者方を飛び出し、東側の小さな崖道を降り、瞬間、右方の十郷村の方へ行こうかと思つたが、家へ帰ろうと思い返し、道を左方にとつて善教寺まで行つた。」(2584(検)調書)旨被告人の述べるところは、自ら体験した者にして初めて語りうる供述ではないかとの感さえ免れないのである。かような供述は、いずれも自白の証明力にかかわる貴重な陳述であり、被告人の自白の真実性を支持する証拠の一つにほかならない。しかしながら、被告人の自白にはその真実性を疑うべき幾多の理由がある以上、かような供述のみによる直感をもつて自白の信用性を全面的に肯定することはいささか危険であり、被告人の自白はさらに他の確たる証拠によりその信用性を確認しなければならない。しかるに、次項において説明するとおり、被告人の手記五通はいずれも被告人の自白の信用性を保障するに足りるものではないのである。被害者の胴巻きの中に残されていた革財布にけしの実大の人血痕一個が付着していた事実(遠藤中節25826鑑定書・25811鑑定嘱宅)は、その血液型が判明しない以上、本件において被告人の自白の真実性を支持する確証とすることができない。「確定判決の認定判断について」の項に掲げた証人谷口孝25812(裁)尋問調書により被告人の自白の信用性を保障しえないことも言をまたない。右は被告人が本事件発生の当夜おそく帰宅したことをその証言自体によつて確認できるものではないのである。被告人ののいわゆる二度突きに関する供述その他原第二判決が自白の真実性を保証する事由として説示するところによつてもいまだ被告人の自白の信用性につき確たる心証を形成しがたいことは、以上それぞれの項において説明したとおりである。そして、他に被告人の自白の信用性を確認するに足る証拠は全くないのである。被告人が、神田農協強盗傷人事件の共犯者石井方明に対し、犯行を自白しないよう固く口止めし、あたかも本件の発覚をおそれるような言動を示したこと(石井方明26713証言、25818(員)調書)、また前述の一万円窃取事件の共犯者安藤良一との間で本事件発生後互いに右窃盗の事実を他に告白しないよう固く口止めし合つたこと(安藤良一2621証言、被告人25814(検)調書)、そして、被告人が、当時親兄弟や仕事仲間に対し、探偵して本件の犯人を探し出す旨仔細ありげに述べたこと(被告人25626(員)調書、57127法廷供述)、日頃遊び仲間の友人に対し、犯罪を犯した翌日仕事を休むと怪しまれるから平常どおり仕事に出るがよい、奪つた金員を一度に費消すると嫌疑を受けるから少しずつ使うようにし、また他から借金するがよいなどと話していたこと(石井方明26713証言、25818(員)調書)、拘禁中あたかも自己が本事件の犯人であることを自認するごとき言辞をもらし、ときに看守巡査らに対し悔悟の情を示したこと(竹田明之25812報告書、大西好一25824報告書、大谷熊太郎2599(員)調書、橘勇2621証言)、昭和二五年八月一九日夜行われた現場実況見分の際、被害者方炊事場の板戸のゴットリの突き跡部分が切り取られ、新しく張り替えられているのを見て、アッと驚きの声を上げたこと(宮脇豊2623証言、田中晟26713証言、被告人45514・571117各供述)、同年八月四日丸亀簡易裁判所において勾留裁判官に対し本件犯行を自白したこと(2584(裁)勾留質問調書)は、本件においていずれも被告人の自白の真実性についての前記疑いを解消せしめるに足るものではない。逮捕以前及び拘禁中における被告人の片言隻句をとりあげてその意を推察し有罪認定の有力な資料と解するがごとき危険をおかすことは許されないのである。また、公平中立の立場にある勾留裁判官の面前において自白したといつてもこれにより自白そのものの真実であることが保障されるわけではないのであり、自白すること自体は勾留請求前すでに捜査官の面前においてもなしているところであつて、その自白そのものの真実性自体に覆いがたい前記疑問の存するのが本件であることを看過してはならない。要するに、被告人の自白はその信用性を肯認しえない以上本件において有罪の証拠とすることはできないのである。なお、被告人の自白の任意性について一言するに、被告人は、再審公判において、捜査官の自己に対する取調状況に関し、「高瀬に移監されてから取調が段々と厳しくなり」、「減食と昼夜の別のない取調により懊悩と寝不足で心身ともに衰弱するばかりであつた。」、「手には手錠を二つ掛けられ手首から指の部分は血が通わなくなつて紫色にふくれあがり」、「足にはロープを膝から下へ五回ぐるぐると巻きつけられ正座をさせられた。」、「そのような拷問は、自白前に二回くらいと自白後に二、三回くらいあり、このため失神したことも何回かあつた。」(57824・57825各公判期日)旨主張するのである。しかしながら、かような拷問が何時どのような状況で行われたかの質問に対し、被告人の答えるところは全体としてあいまいであり、被害者方で一万円を窃取したときの記憶がきわめて鮮明であるのに引き換え、取調状況に関する被告人の供述は、型どおり「減食」と「昼夜の別のない取調」と「手錠やロープによる拷問」を繰り返し、その述べるところが常に紋切り型にとどまるのである。自ら最も訴えたいはずの最初の自白(25726(員)調書)を迫られた際の取調状況に関する供述すらその例外ではない。記憶不鮮明の理由が、多年の歳月の経過と拘置監でひたすら精神の平安を求めた生活の影響によるものとし、被告人が再審公判において被告人質問に対し半ば供述を拒否するに及んだのは余儀ない選択であつたといえよう。案ずるに、被告人に対し減食や昼夜の別のない取調が行われたあとは認められず、拷問の点もまた事案の争点を意識した被告人の意図的な陳述であるやに看取されるのである。このことは、本件記録によれば、拷問の点に関する被告人の主張が、原第二審判決に対する上告趣意書のなかで初めてなされ、再審請求審、再審公判と段階を経るに従つて次第にその度を加え、ことに再審請求段階において、被告人が、昭和二五年八月一九日夜の現場実況見分の途次手錠は一つであるのにこれを二つ掛けられた旨虚構の事実を述べるなど(45514供述、571117法廷供述)、再審の開始を願う心境の切なる余り、本件の争点に関しいくつかの事実に反する陳述をしている点に照らし、窺い知ることができるものといわなければならない。取調の状況に関しこれに関与した捜査官らの証言は、もとより拷問等によつて自白を強制したことはない旨供述し、被告人の前記主張を支持するものではないのである。他方、弁護人らの主張は、これを要約するに、被告人の自白は、不当に長い勾留後の自白であるのみならず、その供述の内容や変遷状態からみても、取調官の想定した筋書きを語らしめたにすぎず、任意にされたものでないことが明らかである。ことに、被告人の25821(検)調書は、検察官が田中晟警部の作成した鉛筆書きの草稿(昭和五六年押第二九号の三九財田村強盗殺人事件捜査書類綴の一部)に基づきこれに若干の付加訂正を行つて創作した取調官の作文であり、明らかに証拠能力を欠き、その任意性を問題とする余地すらないというのである。しかしながら、神田農協強盗傷人事件の裁判が昭和二五年六月三〇日に確定し、被告人がそのころから引き続き窃盗(後述)、暴行、恐喝、本件強盗殺人事件で順次逮捕勾留され、同年七月二六日以降に相次いでした一連の前記自白は、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白にあたるものとはいえない。また、被告人の自白には、前に指摘したとおり、迎合的な気持からひたすら取調官の意にそうように供述したあとさえ窺われる点があるけれども、取調官によつて要約された供述録取書面の性格上、その供述がいかなる経緯のもとになされたかを書面の記載そのものから判断することは困難であるのみならず、供述に変遷があるからといつて、変遷自体はむしろ任意性の徴憑とみる余地もあり、その供述自体から直ちに被告人の自白が任意性に欠けるものと認めることはできない。そして、検察官作成の前記自白調書(25821(検)調書)は、高口義輝45423証言によれば、検察官が、被告人を数回にわたり取調べた結果をみずからメモにとつたうえ、調書作成日の取調に際しては、このメモに基づき、被告人が自供した事実をその面前で立会事務官に口授し録取させたものであることが認められ、被告人もまた右調書は検察官が被告人から聴取したものを見ながら事務官に口授して書かせ、さらに当日の取調において検察官から押収にかかる証一四号胴巻、証一五号革財布、証二〇号国防色ズボンその他の証拠物を示された旨供述しているのである(被告人45514供述、571117法廷供述)。ゆえに当日の取調の際における右証拠物の呈示の有無を疑う余地はない。田中晟警部作成の鉛筆書き書面(昭和五六年押第二九号の三九財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課一九〇丁ないし二〇六丁)は、被告人の前記自白調書の記載と比較対照し、かつ右書面に添付された鉛筆書きの本件起訴状(昭和二五年八月二三日付)写しと併せて仔細に検討すれば、田中晟警部が本件公訴提起後において右自白調書の内容を粗雑に転写したものに相違ないことを窺わせるに十分である。この点に関する弁護人らの指摘は揣摩臆測にすぎないものと評されよう。要するに、自白の任意性に関し被告人及び弁護人らの主張するところは、以上の理由により、いずれも採用することができない。

第五  被告人の手記について

一被告人の手記五通の内容の骨子は次のとおりである。

2582手記「靴は黒皮短靴ではなく軍隊の靴である。僕は、あたりを見て金がなかつたので、被害者に包丁を突きつけておどかし、同人が包丁を握り何をするのだと言つたので、包丁を引くや、同人が立ち上り僕の腕を握ろうとしたので、直ぐ同人の身体を突き、さらに悲鳴をあげて逃げる同人を突いたり斬つたりし、同人が箪笥のところに倒れたので、その胴巻をとり、包丁と手を同人の着物でふき、最後に同人の口や胸のあたりを突き、耳を傾けて外の様子を窺い、大股で部屋を出た。犯行の帰途、帰来橋のたもとで上服、靴、包丁、手を洗い、轟橋の東の端で包丁を川に投げ捨てた。家へ帰つて寝床に入ろうとしたとき弟孝が目をさまし、どこへ行つていたのかと問うたので、宮坂屋へ行つていたと答え、同人が眠つたあと、盗つた金を数えたところ、百円札が百十枚と十円札、五円札合せて千円位あつたと思う。金の使途は取調の際述べたとおりである。服は、警察の国防色夏服と黒サージの服、靴は軍隊の靴である。被害者の胸は最後に一回抜かずにまた刺した。」

25817手記(六枚綴)「刺身包丁は以前財田青年学校から持ち帰り炊事場の竹棚に置いてあつた。被害者の家の釜場の入口の板戸を刺身包丁で二、三回突き、戸を両手で持ち上げて右に引くと戸が開いた。被害者の寝ている部屋へ入り、同人を刺し、包丁を拭き、胴巻の金を盗り、同人の心臓を二回突き、また包丁を拭いた。……靴は黒い靴、上着は濃緑色の進駐軍放出品、その下に警察の綾織りの服を着用し、下服は国防色ズボンをはいていた。」

25817手記(4枚綴)「私は、犯行が発覚しないようにいろいろ苦心したが、県本部の方に調べを受けたとき男らしく自白した。上服と下ズボンは、血をのけるため、二回にわたりよく石けんつけて洗つた。弟や炭焼きの仲間に対し、警察に頼んで探偵をやらしてもらうと言つたのは、私がやつておらぬように見せかけるためである。」

25819手記「盗つた金の費い残り八千円位は警察署に連行される途中、小野水車から半町くらい行つたところで車外に捨てた。被害者の顔に恐怖のあまり新聞紙をかぶせ、胴巻は金をとつたあと着物つりにひつ掛けた。金が残つているのに神田農協へ強盗に入つたのは、金がもう少し欲しいのと服を作りたかつたからである。」

25824手記「友人の行成利徳から被害者方のことを教わり、安藤良一と一緒に被害者方で現金一万円を盗んだこともある。本件はわれながら本当に馬鹿なことをしたものだと思う。」

二  手記の筆跡について

被告人は、以上の手記五通は何人かの偽造であると主張するのである。なるほど、手記では自分のことを表現するのに「僕く」、「和くし」、「私し」と記載し、助詞である「は」の使い方も「わ」を用いた手記がみられ、日付の異なる手記相互の間ではその表現が一貫していないことが認められる。しかしながら、右は手記の随所にみられる誤字、脱字その他当て字などに照らし、かつまた文の稚拙にかんがみれば、筆者の教養の程度を物語るものにすぎず、手記五通の筆跡は、被告人25729(員)調書添付図面四枚、2585(員)調書(第七回)添付図面三枚中の被告人において自筆と認めた署名の筆跡と符合していること、手記五通に押捺された指印四三個の指紋はすべて被告人の右手拇指の指紋と一致すること、被告人において右指紋は自己の右手拇指の指紋でありみずから押したものであることを認めたこと、被告人が有罪判決の確定に至る審理の過程において一度たりとも手記は偽造である旨の主張をした形跡がないこと、被告人は上告趣意書並びに第一次再審請求事件の審理において手記の自筆であることを認めたこと、手記が偽造である旨の被告人の主張は、昭和四五年五月一四日本件再審請求段階における請求人尋問において、裁判長矢野伊吉から2582手記を示された際、その自筆であることを認めながら、右尋問の途中からにわかに手記五通の作成をすべて否認しその偽造を主張するに至つたもので、尋問の仕方に触発された被告人の意図的な陳述の一つにほかならないことは、当該尋問調書、山本脩46119鑑定書その他関係各証拠によつて明らかなところであり、以上の認定事実に宮脇豊2623証言、田中晟26713証言、広田弘26713証言を総合して考察すれば、手記五通は、その筆跡鑑定を俟つまでもなく、被告人の自筆であることを認めるに十分である。この認定に反する高村厳46728鑑定書、戸谷富之521014鑑定書及び同補充書三通は採用することができない。

三  手記の証明力について

被告人の手記五通の内容は、本件における被告人の前記供述と軌を一にし、つまるところ被告人の自白にほかならない。宮脇豊2623証言、田中晟26713証言、広田弘26713証言によれば、手記五通は、取調官において、被告人の前記自白の任意性を担保せしめる目的をもつて、被告人に対し、紙と鉛筆を与えてその作成を促し、被告人がこれに応じ留置場あるいは取調室においてみずからこれをしたためたうえ取調官に提出したものであることが認められ、被告人において任意に作成したものであることが明らかである。ただし、手記が任意に作成されたからといつて直ちにその内容が真実であるとはいえない。証拠の能力と価値はもとより無関係ではなく、手記の証明力はその任意性の点を参酌してこれを判定すべきは言をまたない。しかしながら、手記の内容が自白にほかならないことは先に述べたとおりであるから、自白の証明力に関する疑問は、とりもなおさず手記の証明力に関する疑問にほかならない。してみると、被告人の自白の真実性を疑うべき前記理由は、等しく手記五通の真実性を疑うべき理由であるといわざるをえないのであり、手記の任意性はその内容の真実性を完全に保障するものではありえないのである。被告人の手記五通には、被告人において反省悔悟の末自白したあとがみられ、ことに25819手記において先に掲げたとおりはじめて被害者の顔に新聞紙をかぶせ、かつ胴巻を着物かけに掛けた点を認め、ここにようやく現場の証跡に符合する自白を遂げた事実は、取調官に対する供述の前記経過よりすれば、意外の感にたえないけれども、本件において被告人の自白の真実性についての前記疑いを解消せしめるに足るものではない。手記のなかではじめて現場の証跡に符合する自白を完成したといつても、これにより自白そのものの真実であることが保障されるわけではないのであり、取調官の面前においてした同様な自白そのものの真実性自体に覆いがたい前記疑問のあることを銘記すべきである。要するに、被告人の手記五通は、つまり自白にほかならず、等しくその真実性に疑いがある以上、いずれも本件において有罪の証拠とすることはできない。

第六  被告人主張のアリバイについて

この点に関する被告人の主張の要旨は、被告人は、本事件発生の当夜、自宅において一晩中弟の孝と一緒に同じ寝床で寝ていたというのである。なるほど、中林ハマ25812(裁)尋問調書、25726(員)調書、25812(員)調書を総合すれば、中林ハマは、昭和二五年旧正月(新暦の二月一七日にあたる)の一〇日直後ないし一五日かその前後ころ、被告人の父谷口菊太郎宅を訪れ一泊か二泊した際、被告人が座敷で寝ており、同人宅を辞しバスの停留所でバスを待つていたとき誰からともなく本事件のことを聞知した様子が窺われるけれども、中林ハマの右供述は、被告人の寝ていたという日が本事件発生の当夜であつたことをその供述自体はもとより滝下ナツ2693証言その他関係各証拠によつて確認できるものではないのである。そして、被告人の主張にそう谷口菊太郎(父)2688・28131各証言、谷口ユカ(母)2683・28131各証言、谷口孝(弟)2621・28131各証言は、いずれも中林ハマが本事件発生の当夜被告人方に宿泊中であつたことを前提とするものであり、にわかにこれを採用することができない。被告人が当時月に何回となく夜遊びをし深夜帰宅する場合の珍らしくなかつたことは各般の証拠を通じ明らかであつて、被告人主張のアリバイはとうてい成立しないのである。

第七  結語

以上のとおり、被告人の自白はその真実性に疑いがあり直ちにこれを有罪の証拠とすることができない。被告人の手記五通についてもまた同様である。証二〇号国防色ズボンに被害者の血液型と同じO型の血痕が付着していた事実は、先に述べたとおり、被告人の自白の真実性を保障するものではないのみならず、被告人が本事件の当日同ズボンを着用し本件犯行に及んだ事実を間接に推認せしめるに足りない。そして、本件において他に被告人を犯人と推断するに足る証拠はないのである。なるほど、被告人は、安藤良一と共謀のうえ、昭和二三年一一月ころの午後一〇時ころ滝下秀雄方で玄米六斗を窃取し(起訴猶予)、石井方明と共謀のうえ、昭和二四年一月二四日午前三時ころ中矢キクエ方を襲い金品を強取しようとしたが未遂に終り(懲役二年六月・五年間刑執行猶予、27318右猶予取消・5938刑執行終了)、安藤良一と共謀のうえ、昭和二四年七月中旬ころ本件被害者香川重雄方で現金一万円、黒色ズボン一枚及び木綿地褌一枚を窃取し(起訴猶予)、石井方明と共謀のうえ、昭和二五年四月一日午前零時三〇分ころ神田農協強盗傷人事件を犯し(懲役三年六月・30615刑執行終了)、当時未成年ながらすでに犯罪の常習者であり、ことに本件被害者方をねらつた窃盗事件は、既述のとおり、夜半にみかんの木を登つて二階の窓から屋内に侵入したうえ、一階の床下にもぐつて夜を明かし、被害者が所用で家をあけた隙に屋内を物色し、畳の下から現金一万円(当時国家公務員給与ベース月額六三〇七円)を盗んだものであつて、被告人にとり被害者宅は勝手知つた他人の家にほかならなかつたのである。そして、本件は、被告人が公訴事実記載の犯行を自白し、「再審開始に至る経緯」の項で説明した経過により、原第一審の宣告した有罪判決が確定している被告事件である。今をさかのぼる三十余年前自白に対する法的な制約のなかつた旧刑訴法の画期的改正後間もないころに発生した犯罪であり、現行法の適用に習熟したいま現在の感覚をもつて当時行われた本件捜査のあり方をいうことは結果論のきらいがないとはいえない。自白の任意性や補強証拠の制約は旧法にはみられなかつたものである。しかし、自白の証明力があらためて問題とされる限り、過去の捜査に不十分な点があれば、証拠の評価に際しあらゆる可能性の指摘を容易ならしめ、自白をめぐりその真実性の疑問は後日いくらでも提出できるのである。このことは本件再審請求棄却決定及びこれを是認した抗告審の決定を取消し本件を当審に差し戻した特別抗告審の前記決定の理由をみれば明らかであろう。もつとも、当審は、再審裁判所として、被告事件の審判にあたり、証拠の判断等に関し、右決定及び再審開始決定に表示せられた理由に拘束されない。要するに、当裁判所は、旧証拠に再審公判で取調べたあらたな証拠を総合して考察した結果、本件公訴事実中、被害者香川重雄が昭和二五年二月二八日午前二時ころ何者かに殺害されたことは明らかであるけれども、先に述べた理由により、本件犯罪が被告人によつて行われた事実を疑いをさしはさむ余地のない程度に確信するに至らないのである。してみれば、本件は、金員奪取の点につき補強証拠の有無を論ずるまでもなく、被告事件について犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条に則り被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(古市清 横山敏夫 横山光雄)

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